昭和を彩ったストリッパーたちが「陰部晒し」の「チキンレース」に参加した衝撃の理由
1960年代ストリップの世界で頂点に君臨した女性がいた。やさしさと厳しさを兼ねそろえ、どこか不幸さを感じさせながらも昭和の男社会を狂気的に魅了した伝説のストリッパー、“一条さゆり”。しかし栄華を極めたあと、生活保護を受けるに至る。川口生まれの平凡な少女が送った波乱万丈な人生。その背後にはどんな時代の流れがあったのか。 【漫画】床上手な江戸・吉原の遊女たち…精力増強のために食べていた「意外なモノ」 「一条さゆり」という昭和が生んだ伝説の踊り子の生き様を記録した『踊る菩薩』(小倉孝保著)から、彼女の生涯と昭和の日本社会の“変化”を紐解いていく。 『踊る菩薩』連載第34回 『名だたる作家や歌舞伎役者をも虜に…戦後の「伝説的スター」が創り上げたストリップの「黄金期」』より続く
「どこまで出せるか」の競争
華やかなストリップショーは58年ごろ全盛期を迎え、その後、関西系の「特出し」ストリップの大攻勢で、歌謡ショーのようなストリップは衰退する。一条が登場したのはこの時代だった。第1次黄金期が終わり、「どこまで出せるか」を踊り子たちが競う時代に入った。 ストリップ界は「特出し」によって激変した。それ以前のストリップでは、最初の1曲は踊りだけ。2曲目で着物を脱ぎはじめ、3曲目の終わりごろ裸になっていた。 「特出し」の場合、3曲目は最初から全裸である。ヘアはもちろん、奥の奥まで露出する踊り子も出てくる。「悪貨は良貨を駆逐する」の喩えもある。いったん全部見せる「芸」が登場すると、客はそれまでのチラリと見せるストリップでは飽き足らない。 「見せない」踊り子に対しては、「出し惜しみするな」「減るもんやないやろ」と容赦なくやじが飛ぶ。
「特出し」の東京襲来
どれだけ踊りがうまくとも、陰部を隠したままの踊り子は人気が低迷し、舞台にのせてもらえない。戦後日本は自由競争の時代に入っていた。政府による統制、規制は極端に少なくなった。裸も自由競争の時代にあった。 関西系「特出し」は一気に東京に押し寄せ、「関西系オープン」といった看板を掲げると客が入る。一条も60年以降、関西の劇場との縁が強くなった。彼女の気さくなキャラクターは関西人に受けた。 「そのうち、お客さんをからかう余裕が出てきたのよ。あたしが足をこっちに向けると、お客がそっちにざーっと動く。次にもう一方に腰を動かすと、お客さんがその方向にざーって。後ろのお客は、それを見て笑ってた」 一条の舞台を見ながら調子に乗ったのか、興奮が抑えられぬのか、自らも舞台に上ろうとする客も出てくる。その客のネクタイを別の客が引っ張り、引きずり下ろす。まるで喜劇だ。一条が劇場主から、「あんた、たいしたもんや。お客さんに波打たせてたな」と感心されたのもこのころだった。 一条は大阪・新世界の芸能事務所に所属する。稼ぎは5日間で1万5000円、出演の多いときは、月に6万~8万円になった。大学卒業者の初任給が月約2万円の時代である。 このころから裸の自由競争に全国の警察が神経をとがらせはじめる。一条が大阪に馴染み、「特出し」の踊り子として売れ出すに従い、警察は彼女に狙いを定めていく。 『楽屋に警察が入ってきて…「全見せ上等」の伝説のストリッパーを悩ませた「公然わいせつ罪」と「衝撃の逮捕劇」』へ続く
小倉 孝保(ノンフィクション作家)