「背中に刺さったガラスを抜いてくれ」忘れられない父との最後の会話 “血の跡残る枕”に託された願い
2月16日、原爆資料館で一部の展示資料の入れ替えが行われました。その中に血の跡が残る枕があります。被爆証言でもある男性の父親が息を引き取るまで使っていたもので男性はこの枕とともに、原爆の悲惨さを伝えていきたいと語りました。 【写真を見る】「背中に刺さったガラスを抜いてくれ」忘れられない父との最後の会話 “血の跡残る枕”に託された願い 「昔を思い出すの・・・8月6日、7日、8日、この枕で寝ておったんじゃね。6年ぶりじゃけ。」 広島県福山市在住の廣中正樹さん(84)です。 「父は亡くなる10分、20分前は息を深く吸い込んでね、苦しんでいたんですよ。」 廣中正樹さんの父・一(はじめ)さん(当時37歳)は原爆投下の翌日、枕の上で息を引き取りました。 原爆の惨状を今に伝える被爆資料の数々…。 原爆資料館では、こうした資料の劣化を防ぎ後世に残していくため、定期的に展示の入れ替えが行われています。枕は2月16日から展示されました。 原爆資料館 学芸課 学芸員 小山亮さん 「廣中一さんがご自宅に戻られて、けがをされて戻られて休んだ時についたシミだと聞いております。」 布が破れ、染みた血の跡がはっきりと残る枕は、79年前に一(はじめ)さんが生きていた証です。「あの日」の父との記憶を残すため、2016年に廣中さんが寄贈しました。 ■「父の背中に無数のガラス片・・・」8月6日、あの日の記憶 1945年8月6日。当時5歳だった廣中さんは爆心地からおよそ3.5キロ離れた己斐町の自宅近くの小川で遊んでいるときに被爆しました。 廣中さん 「ドーンという音と、爆風がすごくてごーっという音を立ててやってきた。渦を巻いてやってきた目の前を。爆風の驚きと一緒に私は後ろに転げてね。」 何が起こったのか、訳の分からないまま必死に防空壕に逃げたといいます。廣中さんに大きなけがはありませんでした。 一方、父・一さんは通勤中に爆心地からほど近い紙屋町付近を走る路面電車の中で被爆。自力で歩いて自宅にたどり着きましたが…。 廣中さん 「父の姿を見ると、背中の肉が見えていて真っ赤。その背中を見ると、ガラスがいっぱい刺さっていた。何センチも出ているんだ、ガラスが。」 背中には電車の窓ガラスの無数の破片が突き刺さり、やけどは全身に及んでいました。 廣中さんは自身の体験を画と共に、1冊のノートに書き綴っています。