「子どもから大人まで異様に増え続ける発達障害」と「日本社会のヤバすぎる特性」...正常な人が「異常」扱いされるのは日本だけ
多くの社会人に発達障害の診断名は必要ない
米田 子どもだけでなく成人のケースでも同様で、間違いなく過剰診断だらけです。大人の発達障害の診断の話を聞いていて不思議だなと思うのは、 診断を受けたその人は、それまで社会生活を営んできた人なんですね。 よくあるケースとしては、しっかりした会社で幹部としてお勤めしていた人が、心身の不調を抱えたのでクリニックに行ったら、「あなたは大人の発達障害ですよ」と言われて、「あ、そうだったのか!」となる。しかし、本来の診断基準からすると、社会性やコミュニケーション能力が破壊的ぐらいまでのレベルでないと、発達障害としての診断はできないんですよ。 もちろん、社会性やコミュニケーション能力について危うい傾向がある人はたくさんいますよ。しかし、それまで曲がりなりにも社会生活を営んできた実績がある以上は、いちいちそこに診断名をつける必要はありません。なのに、いったんそれがつくと、自己暗示がかかる。自分は発達障害だからということを言い訳にして、身の回りのトラブルの免罪符にしてしまいがちです。 和田 自閉症スペクトラムやADHDなどの発達障害に関して、世間のコンセンサスとして「それも個性だ」と認めてくれてるんだったら、多少の過剰診断もいいとは思います。この人はなんかちょっと落ち着きないけど好奇心旺盛だとか、ものを片付けられないけど割といろんなことに興味を持ってる人だとか、 この人はとても変わり者だけど集中力抜群だとか、そういう個性として認識してくれているんであればね。 ところが、今の社会的認知は、「ダメなやつは、矯正しないといけない」「薬で治療しないといけない」という、ダメなやつというレッテル張りになってしまっている。だから、過剰診断に害がある以上、現状のやり方はまずいんじゃないかと思いますよ。 米田 初歩的なところに大きな問題があって、発達障害の「障害」という言葉。これは英語の元の言葉ではディスオーダー(disorder)なんですが、「障害」と翻訳したのがいけなかった。日本語の「障害」には、「この人は生まれつき器質上の問題がある、あるいはもう一生治らない」というイメージがつきまといます。 そのため、いったん発達障害という診断をつけられたら、もうこの人は普通じゃないんだから普通と違うレールでないといけないとか、排除しないといけないというイメージができてしまったのも不幸のひとつと感じます。 構成・文/野中ツトム(清談社) 後編『「海外の新しい科学的発見をも無視する日本の医学界」...改革を阻み続ける、多すぎる「日本の病理」』では、発達障害が「正常」にならない日本社会の背景について、語っていく。
週刊現代(講談社)