実家全壊・友の死 かみじょうたけし震災から21年の思い
震災3日後にテニス近畿大会、全力で臨んだあの日
震災の混乱から3日後、かみじょうのもとに、高校のソフトテニス部の近畿大会団体戦に出てほしいという連絡があった。ちょうど団体戦で県大会を制し、滋賀県長浜市の滋賀県立長浜ドームでの大会への出場が決まっていたからだ。 こうした状況から「行っている場合ではない」と思っていたが、兵庫県の団体代表としてなんとか行ってほしいといわれ、バスや電車、タクシーなどを乗り継ぎ、時間をかけてやっと会場へと行った。 「兵庫県の個人戦の代表選手はほとんど辞退していました。自分たちは団体だったんで、どうにか行ってほしいといわれて行きました」。全力で臨んだ大会だったが、結果は5位で全国大会への切符を逃した。しかし、やれる状況でベストを尽くしての結果だった。 そして、遠征先でテレビをつけたら一宮町の様子や、全壊した自宅の前で母親が「映さないで」と言っている映像を目の当たりにして辛かった。しかし、そんなかみじょうらを、大阪代表などのテニス仲間が励ましてくれて、そのうれしさも忘れられないという。
命あるだけでもありがたいことやないか
震災後、かみじょうの家族は、父母の親類の家へ身を寄せた。父親が町会議員の立場から「お前たちには申し訳ないけど、仮設へは最後の最後にしか入られへん」と言われていたからだ。 仮設住宅は足りない状況だった。しかし、北海道の奥尻島から仮設住宅が提供され、家族はそこに住むことができた。かみじょうは、通っていた高校近くの親せきの家で卒業までをすごし、後に京都府内の大学へ進学。その後、松竹芸能に入り現在の活躍に至る。 毎年1月17日は、あの時のことを思い出す。そして、幼なじみの2人のことも。「自分が生きていく中で、辛いことがあったり、どうしようもなく行き詰った時は、ふみくんとさゆりちゃんの顔が浮かぶんです。『なにを悩んでんねん』『命あるだけでもありがたいことやないか』って」 震災から5年後、妹が成人式を迎えた。そして、同級生のふみくんの両親に報告しにいくと同級生みんなが集まり、同じように挨拶に訪れていたという。「みんなで約束したわけでもないのに、自然と集まって成人したと報告してたそうです。晴れ着姿の妹が泣きながら帰ってきて、そのことを話してくれたのを今でも覚えてます」 震災が起きたあの瞬間、2人と同じように、生きたくても生きることができなかった人たちがたくさんいる。かみじょうは生きていく中で、様々な辛い出来事に直面しても、2人のことを思い出すという。そして「自分は命があっただけでもありがたいやないか、そんなことでなにを悩んどんねん。しっかり生きていかなアカン」と自分に言い聞かせているという。