【山手線駅名ストーリー】昭和30年代の駅前ロータリーがなんとものどかな駒込駅。駅メロが「さくらさくら」である理由は…?
六義園と八百屋お七関連史跡
駒込駅南口を出るとレンガ造りの塀が目に入る。六義園だ。側用人・柳沢吉保が徳川5代将軍・綱吉から約4万6000坪の土地を拝領し、7年をかけて造営した日本庭園で、駒込の名所として真っ先に挙げられよう。 吉保は綱吉の12歳年下で、甲斐源氏武田氏の流れを汲む名門の出身と称していた。 綱吉が館林藩主だった頃から側近として仕え、将軍就任と同時にめざましい出世を遂げていく。1694(元禄7)年には石高7万2000石の大名となって川越藩主の座に就き、駒込に土地を賜ったのはその翌年である。 六義園の名にある「六」は、中国最古の詩集『詩経』にある6つの詩の分類「風=ふう」「雅=が」「頌=しょう」「賦=ふ「比(ひ)「興(きょう)」に基づき、それぞれが民謡・朝廷の正楽・祭りの歌などを指している。こうした意味を持つ文字を庭園の名に採用するあたりに、教養人としての吉保の一面がうかがえる。 大きな池の周囲を散策できる「回遊式庭園」で、春はしだれ桜、秋はライトアップされた紅葉が彩る風流な名所だ。
そうした雅な地がある一方で、悲劇を伝える史跡も残る。「八百屋お七」にまつわる伝承地だ。 1682(天和2)年、駒込の寺院が火元となって、死者3500余を出した大惨事「天和の大火」が発生した。 火事で焼け出された八百屋のお七の一家は同じく駒込にあった寺に身を寄せた。お七はそこで寺の小姓・庄之介と恋仲になるが、やがて八百屋が再開すると、一家は寺を引き払って行った。 恋人と会えなくなったお七は、庄之介のいる寺で暮らしたい一心で、放火の大罪を犯して捕縛され、死罪となった。 以上が伝承のあらましだ。 しかし、焼け出されたお七が身を寄せたとされる寺は当時の絵図に見当たらない。お七の年齢も15~16歳と曖昧で、生家が八百屋だったことを示す確たる証拠もない。処刑された日付も見聞録『天和笑委集』では「天和三年三月二十八日」となっているのに対し、墓石には「三月二十九日」と刻まれているなどズレがある。つまり、不明な点が多い事件なのである。 一方、同じく見聞集の『御当代記』の天和3年の章に、「駒込のお七付火之事、此三月之事にて二十日時分よりさらされし也」とあり、お七という娘が放火犯として3月20日から晒し者となっていたのをうかがわせる。 ともあれ、駒込界隈(かいわい)の生まれ育ちだったことから、周辺にゆかりの地が集中している。 まず、駒込駅から本郷通りを南へ約1キロのところにある曹洞宗の寺・吉祥寺には、お七と恋人の碑「比翼塚」がある。 恋人の名が「吉三郎」となっているのは、同時代を生きた井原西鶴がお七を取り上げた『好色五人女』や、歌舞伎の演目で吉三郎となっているためだ。 そもそも吉祥寺に碑があるのも、お七と寺の小姓が出会った地を西鶴が吉祥寺と“特定”したからである。実はこれも信ぴょう性は薄いようだが…。 さらに南に700メートル行った大円寺の山門正面にあるお地蔵さまは1719(享保4)年、お七を供養するために寄進されたものだ。 大円寺から300メートルの場所には、お七の墓が立つ円乗寺がある。 墓石が3つ並び、真ん中はお七が処刑された当時の住職が建て、右は『松竹梅湯島掛額』のお七を当たり役とした歌舞伎役者5代目・岩井半四郎が1793(寛政5)年に建立。左は、昭和に入って近隣の住人たちが建てた。 実像がはっきりしないお七だが、駒込の地では長く愛されている。