【山手線駅名ストーリー】昭和30年代の駅前ロータリーがなんとものどかな駒込駅。駅メロが「さくらさくら」である理由は…?
〈渡来人に由来〉
古代に渡来人の「高麗人」が住んでいたことから「高麗籠=こまごめ」と呼ばれ、駒込に転訛(てんか)したという説。この説は『東京の地名由来辞典』(東京堂出版)など複数の資料に掲載されてはいるものの、出典は不明。 現在のところ、駒込の地名が確認できる最古の文献は16世紀前半の『小田原衆所領役帳』である。「葛西在城番衆遠山弥九郎」なる人物の所領として「駒込」が確認でき、戦国時代には地名として成立していたといえる。 江戸時代に幕府が大名に命じて作成させた『正保国絵図』(1644年頃から作成開始)、『元禄国絵図』(1696~1702作成)、『天保国絵図』(1835~1838作成)のいずれにも「駒込村」は載っており、17世紀には定着していた地名だったことも分かる。 江戸期は、町奉行が支配する江戸御府内の「下駒込」と、代官が管理する農村地だった「上駒込」に分かれていた。下駒込はほぼ現在の文京区本駒込、上駒込が豊島区駒込に相当する。駒込はもともと御府内と農村を包括した広い範囲に及ぶ地名であり、それらを代表する形で命名されたのが山手線の「駒込駅」といえよう。 駅の開業当時の所在は、北豊島郡巣鴨町大字上駒込で、現在は豊島区駒込2丁目である。 なお下駒込(現・文京区)は、明治時代には「駒込曙町」「駒込浅嘉町」「駒込追分町」「駒込富士前町」など、駒込の名を冠した10以上の町があったが、昭和40年頃までにすべて廃止され、現在は文京区本駒込・千駄木・向丘・西片などの町名に変更されている。
駒込は茄子(なす)の名産地
このシリーズの「巣鴨」の回でも触れたが、江戸時代中期以降の巣鴨から駒込一帯は、植木職人が集住する花の名所として知られていた。特に「染井」という場所では幕末まで、代々伊兵衛の名を世襲した植木屋・伊藤家が活躍し、美しい菊やツツジを栽培する名人として有名だった。 現在も5月になると、駒込駅のホーム脇線路の花壇にツツジが咲き誇る。1911(明治44)年、前年の駅開業を記念して近隣の植木職人たちが植えたのが始まりで、今もその伝統が根づいている。 桜の品種・ソメイヨシノを開発したのも染井の職人たちだったといわれる。駒込駅を山手線が発車する際、ホームに流れるメロディが「さくらさくら」なのは、そのためである。 野菜の名産地でもあり、江戸三大青物市場のひとつ「駒込土物店(つちものだな)」もあった(他の2カ所は神田と千住)。「土物」とは、採ったばかりでまだ土が付着した新鮮な野菜を指し、前述の駒込浅嘉町をはじめ3つの場所に市がたったという。 『新編武蔵風土記』には「茄子土地に宜(よろしき)をもって世にも駒込茄子と称す」とあり、茄子が一種のブランドだったことを記している。