経営も育児も「選択と集中」─ウィズグループ奥田社長に聞く“理想”の見つけ方
「一回すべてを手放した経験」が人生を変えた
──それでは人生最大の壁、インドでのお話を伺いたいのですが、そもそもなぜインドに行かれたのでしょうか。 まず、私の父親が日本人学校の校長としてインドに赴任をしていたからというのが一つ。大学4年の夏休みに、1ヵ月ぐらい遊びにいこうか、と。でも、一番の理由は、そこで見た「すべての風景が、まったく理解できなかった」からです。あちこちにいる物乞いの子供や、足がない、手がないという人が道端にあまりに多いこと……いっぽうで、親が住んでいるマンションにはベンツが6台並んでいる。1986年頃の風景です。 自分のそれまでの経験からすると到底理解できない世界があって、単純に「この世界を知りたい」、「私はここに住みたい」と突如、何かに殴られたように思い立ちました。 ですが、父親は翌年日本に帰国することが決まっていて、私もすでに教員採用試験に合格し、日本で学校の先生になることになっていた。そんななかで、なんとかインドに行く理由を作りはじめたわけです。当時大学で障がい児教育を学んでいたことを理由に、(当時の)「国立ボンベイ大学で社会福祉の修士を目指します」と親を納得させるためにとっさに言った。 当然親が許してくれるわけもなく、そこから3ヵ月くらい親子喧嘩の日々が続きました。まだ交換手がいて繋ぐ時代に、父親と国際電話で戦って。それまでの私は、親に従う「良い子」でした。それが大学4年生、22歳になって初めて、自分の希望を親にぶつけた。結局、亡くなった叔母の援護射撃もあって父親が根負けしました。 でも、試験は6月。3月に大学を卒業してインドに渡るときには、何の保証もありません。このとき「一回すべてを手放した経験」というのが、私の人生を変えた気がします。それまでの予測可能な人生を捨てて、22歳で何も手にしていない状態になった。あるのは「自分の思いだけ」でした。 この経験から言えるのは、「何も持っていなくても、人は願って良いんです」ということ(笑)。 ──その後、無事試験に通り、9月から大学院に入られたということですね。 はい。大学院に入ったは良いのですが、そこから2年間がもうまったくもって思い通りにならなくて! たとえばその時代はまだ、インドでは夫が亡くなると、妻がお葬式の火に飛び込むという慣習が残っていて…… ──えっ? 「えっ」ですよね。そういう反応だったんです、私も。寡婦になると、彼女にはそこから先の生活の糧を与えてくれる人がいなくなる。だからその女性は、自分の貞操を守るためにも、社会のためにも、お葬式の火の中に飛び込んで、一緒に自死するという慣習があって、それがまた何年かぶりにおこなわれたわけです。それはさすがにインドでも社会問題になりました。 大学院でも「そういう慣習を止めさせるにはどうしたら良いか」とか、女性たちのエンパワーメントをクラスで議論する。いまみたいなレベルではなく、女性たちにも人権があるんだ、女性は男性の従属物じゃないんだ、という話です。そんななかで「ヒロミは先進国から来ているから、一番説得力があるに違いない」と言われ、一番前に出されて「思っていることを言いなさい」という場面になったときに、私はまだ「えっ? どういうことですか?」という状態。理解が追いつかず、何も言えない。 思考が停止してしまうようなことの連続で、私はインドに対して「何かしたい」みたいな気持ちを持つに至るまでもなく、まったく理解もできないまま、何の役にも立たない「ただただ無力で非力な自分」として、2年間で学位だけ取って、泣きながら飛行機に乗って帰ってきました。 「人間、何もやれないものなんだな」と。学んだとしても、学んだことが行動に移せるような生やさしい社会じゃなかった。要するに「何が壁なんだかわからなかった」。 ──そのときの経験がいまの生き方や働き方に影響を与えている部分はありますか? これはいくつもあるんですけど、絞って言うならば、「文化が違う場所に行くと、自分の常識や価値観みたいなものは、想像を絶するほど意味がない」と身をもって理解したこと(笑)。自分の価値観がまったくもって意味がない世界があるんだなと感じたのが一つです。 でも、私はそういう世界に自分で好奇心から飛び込んだ。そしてそこで、解くのに何年もかかる壮大な問いをもらいました。 「いろんな価値観がある社会で、あなたは何を正義として生きていくんですか?」、「あなたは何を解決できる人間なんですか?」……こうした問いを2年間でもらって、私はそれを30年間悩んで、やっと答えが見つかった。 ──その解答がいまのお仕事ということですか? そうですね。2024年2月9日、3年がかりで準備してきたNPO「Hiromi Vidha Foundation(ヒロミ・ヴィディア・ファンデーション)」がインドで立ち上がりました。 子供たち、特に女子教育を支援するNPOです。インド留学時の「権力もお金も、語る力も何もない」みたいな状態から30年経って──2月9日は私の娘の誕生日なのですが、娘も24歳になり、自分の子育てはひと段落したと思えたときにできました──結局、できることは限られているけれども、目の前で助けられる人を1人、2人と援助していくことしかないな、と。 私にとってインドの子供たちは、30数年前に問いを与えられた、最初の、身近で何の解決もできなかった人たち。人生の指針みたいなものです。