<ベトナム>ホットスポットに生きる ── 高橋邦典フォト・ジャーナル
ベトナム中部、ラオスとの国境を擁する山岳地帯のアルオイ渓谷。戦時中もっとも戦闘の激しかった、そして大量の枯れ葉剤が使用された土地のひとつでもある。 山に囲まれた緑の丘陵地に、有刺鉄線の張り巡らされた一角があった。米軍特殊部隊の基地のあった場所だ。滑走路の南端に保管された枯れ葉剤は、C-123輸送機に乗せられて、各地のジャングルでばら撒かれた。 90年代半ばから枯れ葉剤の調査を始めた、カナダの環境コンサルタント会社ハットフィールドの研究者たちによって、この土地にはいまだに大量のダイオキシンが残留していることが確認された。土壌や湖水、さらに食物連鎖して魚やアヒルの脂肪、そして住民の母乳中にいたるまで、高い値の汚染が検出されたのだ。この基地跡のように、現在もダイオキシン汚染の高い場所が「ホットスポット」と名付けられた。 枯れ葉剤を製造、販売した企業のひとつが、米化学会社ダウ・ケミカルだ。ちなみにこの会社はベトナム戦争で使われたナパーム弾も製造し、核兵器製造による汚染漏れや、中南米で健康被害をだした農業用殺虫剤DBCPの生成にも関わっている。アルオイのホットスポットでは、ミシガン州にあるダウ・ケミカル工場の2倍、アメリカの住宅地におけるダイオキシン規制量の200倍もの汚染が確認された。こんな「死の土地」に、人々は長い間何も知らされることなく住み続けていたのだ。
ハットフィールドの調査のあと、基地跡のホットスポットに住んでいた人々たちは、500メートルほど離れた場所に移動させられた。66歳のカン・ベンもその一人だ。もともと彼女はここから70キロほど北のクアン・トリ省生まれだが、政府の経済振興政策の一環で、1991年にアルオイに引っ越してきた。そのときベンさんのあらたな住処になったのが、なんとホットスポットの真ん中だった。当時は政府もダイオキシンのことなど知らなかったのだ。 「12人子供がいたんだが、7人は死んだよ。みなアルオイに引っ越してからだ。医者もなんでかわからなかった。基地跡で生まれた娘のバイは耳も聞こえないし話すこともできない」 一部屋しかない小屋の入り口に子供たちと腰掛け、遠くの山を見ながらベンさんが言った。 「ここらの人たちの多くは同じような目にあってるさ。長い間、何も知らずに水を飲んだり、近くでとれる米や魚を食べ続けていたんだからね」 (2009年6月) ---------------- 高橋邦典 フォトジャーナリスト 宮城県仙台市生まれ。1990年に渡米。米新聞社でフォトグラファーとして勤務後、2009年よりフリーランスとしてインドに拠点を移す。アフガニスタン、イラク、リベリア、リビアなどの紛争地を取材。著書に「ぼくの見た戦争_2003年イラク」、「『あの日』のこと」(いずれもポプラ社)、「フレームズ・オブ・ライフ」(長崎出版)などがある。ワールド・プレス・フォト、POYiをはじめとして、受賞多数。 Copyright (C) Kuni Takahashi. All Rights Reserved.