戦時中に迫害されたブラジルの日系移民 「強制退去事件」の謝罪求める、家族にも語れない悲劇のトラウマ #ニュースその後
立退きの際、日本人学校の建物は連邦政府に接収され、戦後はずっと陸軍が使ってきた。いわば強制立退きの象徴ともいえる施設だった。それが地元日系団体に返還されたのは2018年で、強制収容から75年後だった。その返還運動を中心となって進めたサントス日本人会の会長、中井貞夫さん(63歳、3世)に6月8日、それまでの経緯を聞いた。
祖父は一度もサントス事件を語らなかった
地元におけるサントス事件への感情を尋ねると、事件から81年を経た今でも集団トラウマといえる状況が続いていることが分かった。連邦政府によってサントス日本人会は戦中に閉鎖された。1952年に復活させたのは初代会長に就任した中井さんの祖父、中井茂次郎(しげじろう)さんだ。1902年に和歌山県串本に生まれ、1919年移住。戦前からサントス日本人会評議員、戦後は漁協組合を創立するなど地元日系人の顔役だった。 祖父や父が強制立退きの被害者である中井さんに「祖父は強制立退きの経験をどのように語りましたか?」と尋ねると、「祖父は強制立退きについて一度もしゃべらなかった。というか、サントスの日系人は誰もしゃべらなかった」と現地には現在も深いトラウマがあることを暗示した。 中井さんの横に座っていたサントス沖縄県人会の照屋オズワルド会長(75歳、3世)も「私の父も同じ、しゃべらなかった。映画『オキナワ サントス』(松林要樹監督、2020年)が上映されるまで、誰もしゃべらなかった」とうなずいた。 なぜかと畳みかけると、「ブラジルは戦後、軍事政権が長い間支配したから、怖くて誰もしゃべれなかった。1946年から63年までは文民政権だったが、当時ですらもブラジル人から日系人は差別を受け、受け入れられていなかった。日本人を告発する風潮が強かった。軍事政権中はその風潮に文句をつけることは難しく、ただひたすら日本人の息子は、職業人として人一倍頑張って認められることを目指した。でないと、まともな市民として扱われなかった。そんな時代だったから、1世たちは強制立退きの経験を語らなかったんだと思う。語ったところで、政権批判にしかならない。それは自分に跳ね返ってくる」と説明した。 さらに「1世は戦争中の問題に口をつぐんで、ただひたすら2世団体の創立運営を支援した。その流れから2世団体も日本語教育や日本文化を前面に打ち出すような活動はせず、ブラジル人から存在を認められるようなことを目指してきた」という態度であったと説明した。 終戦直後の勝ち負け抗争で日本移民のイメージが悪くなったことも、それに拍車をかけた。「日本文化を前面に出した活動はしてこなかった。そんな時に、強制立退きの問題を持ち出しても、日本人のイメージをさらに悪くするだけだと思っていた」と振り返る。 中井さんは、「父は1937年にサントスで生まれ、6歳で強制立退きにあって、家族と共にサンパウロ州奥地のマリリアやプレジデンテ・プルデンテに移った。父は幼かったから綿の収穫作業が大変だったとか話したが、強制退去のことは言わなかった。父は1947年にサントスに戻ったが、日本語も日本文化も習うことはなかった」という。 「父だけでなく、強制立退き後に再びサントスに戻った人たちは事件の話を蒸し返すことはなかった。1世たちは常に2世とは別に集まって活動した。例えば祖父は自宅に1世仲間を呼んで、頼母子講や将棋などの寄り合いをよくやっていた。我々は別に金星クラブに集まってフェスタ、サッカーなどのブラジル文化に関わる活動を別にしていた」。 サントス以外の日系団体は通常、1世を中心にして青年部の2世も一緒に活動している。