大坂城を脱した千姫が家康に嘆願するも、秀頼・淀殿は自害!彼らが最後まで受け入れなかった「ある条件」とは…豊臣氏滅亡の真実
松本潤さん演じる徳川家康が天下統一を成し遂げるまでの道のりを、古沢良太さんの脚本で巧みに描いてきたNHK大河ドラマ『どうする家康』(総合、日曜午後8時ほか)もいよいよ12月17日の放送で最終回を迎えます。一方、静岡大学名誉教授の本多隆成さんが、徳川家康の運命を左右した「決断」に迫るのが本連載。今回のテーマは「豊臣氏滅亡の真実」です。 豊臣氏が生き残る道はあったのか?検討してみると… * * * * * * * ◆開戦に向けて 家康は片桐且元が大坂城から退去する前から開戦の準備を始めていて、慶長十九年(一六一四)九月七日付で毛利秀就(毛利輝元の嫡男)・島津家久(島津義弘の三男)・鍋島勝茂(鍋島直茂の嫡男)らをはじめとする西国諸大名から起請文を徴していた。 十月一日に所司代板倉勝重から書状が届き、大坂城内で片桐且元殺害計画があることを報ぜられるとただちに出馬を決意し、これを秀忠に報ずるとともに、諸大名にも出陣を命じた。豊臣恩顧の福島正則・黒田長政・加藤嘉明らは、江戸に留め置かれた。 他方、大坂方でも方広寺の両供養が延期になった頃から、開戦を予測して準備を始めていた。諸大名の蔵米を徴発し、近在の商人米を買い集めるなど、籠城戦に十分な兵粮米を確保した。 秀頼の呼びかけに応える大名はいなかったが、長宗我部盛親・後藤基次(又兵衛)・真田信繁(幸村)・毛利勝永・明石全登らをはじめ、関ヶ原での敗戦から再起を期する牢人たちが続々と入城し、籠城軍は一〇万ほどに及んだという。
◆大坂冬の陣 十一月半ばには、これを二〇万ともいう徳川方の諸大名が囲み、十九日からいわゆる大坂冬の陣が始まった。 大坂方の基本戦略は籠城戦であるが、惣構の南側は空堀で手薄だとして、真田信繁は「真田丸」とよばれた出丸(砦)を築いた。功を焦った徳川方がこれを攻めたところ、鉄炮の威力などでさんざんな敗北を喫した。 大坂城の堅牢さを十分承知していた家康はあえて力攻めを避け、「石火矢」とよばれた大砲で本丸や天守閣への砲撃を強化するとともに、他方で和睦交渉を進めた。 十二月十九日になってようやく和睦同意となったが、その条件や誓約を諸史料からまとめると、 ・本丸を除き、二の丸・三の丸などはすべて破却すること ・淀殿は人質にならなくてよいが、大野治長・織田有楽から人質を出すこと ・秀頼とその知行地については保障すること ・秀頼が大坂城を立ち退くというのであれば、どこの国でも望み次第とすること ・籠城した牢人衆には咎め立てをしないこと などであった。 こうして、堀の埋め立てなどは秀忠に任せ、家康は十二月二十五日に二条城に凱旋し、翌慶長二十年(七月に元和と改元、一六一五)正月三日に駿府へと下っていった。
【関連記事】
- 豊臣家は本当に滅びなければならなかったのか?「徳川に徹底的に臣従していたら」「秀頼自ら大坂城を出ていれば」…本郷和人が考えた現実的な<生き延びる道>
- 本郷和人 関ヶ原時点で59歳の家康が、豊臣家を滅ぼすのに「15年」もかけた理由とは…その背後に見え隠れする<圧倒的実力差>
- 本郷和人 なぜ家康は「特Aクラスの戦犯」上杉・島津・毛利を関ヶ原後に取り潰さなかったのか?外様に領地を与え、譜代に領地を与えなかった統治の妙
- 家康がたった2年で将軍職を秀忠に譲ったことで豊臣方の期待は完全に打ち砕かれた…秀頼への威圧、江戸と駿府の二元的政治。家康征夷大将軍任官の意義とは
- 関ヶ原で大谷吉継の陣が向いていた方角を見てみると…この盆地で三度も大戦が行われた理由とは?実際に関ヶ原古戦場を東京大学・本郷和人先生と歩いてみた