小山卓治のベストアルバムから辿る、シンガー・ソングライターとしての歩み
初めて親父が音楽を認めてくれた瞬間
夏の終わりに / 小山卓治 田家:1989年のアルバム『夢の島』の最後の曲でした。父さん、母さん、家族が出てくる。 小山:そうですね。やっぱり家族の物語がずっと僕の中にあって、よくテーマとして取り上げることになりますね。 田家:さっき『夢の島』のアルバムについてバブルのど真ん中でおねえちゃんたちが扇子を振っている。俺の場所はあるのだろうかと思われたアルバムの最後がこの曲だった。 小山:そういうふうに言われるとちょっと不思議な感じになっちゃいますね。 田家:間にお子さんの声が出てきたりするでしょう。 小山:これは僕の甥っ子と姪っ子の声ですね。 田家:どういうことを歌われようとしたんですか? 小山:このとき僕は32歳なんですね。なので、自分が今まで体験したことのない30代ってどういうものなんだろうということもすごく考えたし、30過ぎたときにもう6年ぐらい経って、ちょっと周りからお前ちょっとしたベテランだなという感じの捉えられ方とかちょっとしていたので。それも非常にいやそんなことないよって。自分が長距離ランナーという自覚が全くなかったので、30代をこれからどうやって生きていくんだろうとあまり検討がつかなかった状態でもあったんですね。そんな中でのこの曲というのもあるのかもしれないです。 田家:そういうシンガー・ソングライターがその後どういう曲を作っていったのかというのがこのDisc2の後半であります。 前夜 / 小山卓治 田家:Disc2の4曲目「前夜」。Disc2の流れ、3曲目「夏の終わりに」、4曲目「前夜」、5曲目「成長」、7曲目「青空とダイヤモンド」、成長4部作。選曲見事だなあと思いましたね。 小山:そうですね。ちょこっとここだけ順番が変わっていたりとかして。 田家:「前夜」は家を出る前夜でしょう? さっきちょっと話にあった25歳で熊本にいてみたいな、ご自分の東京行かないとダメかというようなことをここに歌われているのかなと思ったりもした歌でもありましたね。 小山:それはその通りです。 田家:お父さんに殴られたという。 小山:僕の父は大正末期の生まれで戦争に行った口なので、朴訥で不器用な男でしたね。東京で音楽をやるんだって言ったときには本当に全否定でした。当時は『FILM GIRL』という僕のデビュー・シングルがあって、この曲を熊本で小さなコンテストみたいなのがあって歌ったんです。それが深夜のテレビで流れていて、親父がそれを観ているとは思ってなかったんですけどそこからしばらく経った後に親父に会ったら、いつかあの曲を誰か音楽の分かるやつに聴いてもらいなさいって言われたんですね。初めて親父が僕の音楽を認めてくれた瞬間で、すごくうれしかったことを覚えています。 田家:そういう意味では家を出る前夜でいろいろなことがあったんだろうなという曲ですね。この曲が入っているアルバムが『花を育てたことがあるかい』。このアルバムが出たときはタイトルちょっとびっくりしましたもんね。 小山:まっすぐな歌を作っていたいな、ひねくれた歌を作ってきた自覚はないんですけども。 田家:斜に構えていたところありましたよね。 小山:若干ありますね。なので、本当にまっすぐラブソングを歌いたいなというのがあって、当時そういう気持ちをちゃんと裏付けてくれるサウンドが作れるんじゃないかな、アレンジャーがやってくれるんじゃないかなという気持ちもあって、まっすぐ歌いたいなというのがあってこの歌が生まれましたね。 田家:ソニーは1991年『成長』、1992年『花を育てたことはあるかい』、1995年『ROCKS!』で1回終わるわけでしょう。その後8年空いて、10枚目の『種』がある? 小山:10枚目の『種』は自分のレーベルで作りました。 田家:この8年間の間にこれもあらためて知ったのですが、ロンドンに滞在をしたり、小説を書いていたり、いろいろなことをおやりになっている。ホームページを立ち上げて、自主レーベルを作っていた。 小山:そうですね。この時期は曲ももちろん作っていたんですけど、当時インディーズという方法で音楽を作るということにあまりまだ馴染みのない時代で、そこでどういう形で音楽を発表するのがベストなのか、若干模索しているところがありましたね。 田家:この話は曲の後にまたお聴きしようと思います。そういう期間を経た2003年10枚目のアルバム『種』から「ユリエ」、衝撃の1曲です。