女性監督の連帯進む映画界 切り開いた道、共に歩むために 「東京国際女性映画祭」が遺したものとは
あなたは、自分と同じような道を10年、20年前に歩いた女性の先輩たちと深く会話する機会がありますか。シンポジウム「女性監督は歩き続ける」が11月4日に都内で開かれました。20代から70代までの女性監督がそろった様子は壮観でした。映画界に限らず、世代を超えてつながることで、互いの存在に励まされ、もっとしなやかに生きられるのではーー。そんな気づきを得られた一日となりました。 【画像でみる】切り開いた道、共に歩むために 「東京国際女性映画祭」を振り返る意味
この企画は、1985年~2012年に、東京国際映画祭(TIFF)との共催で開かれた「東京国際女性映画祭」の功績を今に伝え、再び女性映画人が集まる場をという狙いで開かれました。企画した近藤香南子さんの思いは、前回の記事でお伝えしました。 11月4日、ドキュメンタリー「映画をつくる女性たち」(2004年、熊谷博子監督)が上映されました。女性映画祭の15回目を記念して制作された映画で、日本の女性監督の歴史を追っています。映画監督が女性というだけで反発された時代を生きた女性たちが、国境を越えてつながっていた様子を記録しています。 午後のクロストーク第1部「道を拓いた女性たち」に登壇したのは、東京国際女性映画祭が開かれていた当時を知るいずれも70歳超えの映画監督、熊谷博子さん、浜野佐知さん、松井久子さん、山崎博子さんの4人です。最新作を制作中の監督もいます。
高野悦子先輩に励まされた
まず4人が口にしたのは、女性映画祭の中心人物だった岩波ホール総支配人・高野悦子さん(1929~2013)の存在の大きさです。映画にかかわる女性すべてを応援する、懐の広い人だったと話します。 高野さん自身、映画監督になりたくて、フランスに留学して映画制作を学んだのですが、国内外問わず「映画監督=男性」という厚い壁に阻まれました。その後、日本の映画文化を牽引した岩波ホールを率いた高野さんが、いかに後輩の女性たちを励まし続けたかが明かされたのです。ドキュメンタリー「映画をつくる女性たち」を撮った熊谷さんは、「人間、楽な方にいきたくなる。でも高野さんに『低きに流れてはいけない』とよく言われた」と振り返りました。 性愛を描く「ピンク映画」のジャンルでデビューし、300本以上撮った浜野佐知さん。「ピンク映画にはなんの価値もない」という見方が強かった映画界の中で、高野さんは「あなたのピンク映画には女性の視点がきっちり入っている。私はこれを東京国際女性映画祭で上映したい」と激励したそうです。1998年、浜野さんが初めての劇映画「第七官界彷徨―尾崎翠を探して」を制作した際は、高野さんは全面的に応援し、映画館まで駆けつけました。「満席で入れないお客さんに頭を下げた後、高野さんが私をぎゅーっと抱きしめてくれた。本当にその日の高野さん胸の温かさは未だに忘れない」 山崎博子さんは、「日本では映画監督になれない」と分かり、1980年に米国に渡ってUCLAで映画を勉強しました。日米合作作品などにかかわった後、日本に拠点を移し、1991年に「ぼくらの七日間戦争2」という商業映画の監督を任されました。賞を受けるなど評価されましたが、一部の映画人からは「商業映画の監督をするなんて……」と批判され、落ち込んだそうです。「そんなとき高野さんから『東京国際女性映画祭で上映したい』といわれて、とても励まされました」 松井久子さんは日本のTV番組を経て、50歳のときに長編映画を撮ります。戦後、日本から米国に渡った「戦争花嫁」をテーマにした「ユキエ」というタイトルで、日米合作映画でした。 「私は英語がペラペラでも、米国で暮らしたことがあるわけでもなく、全くドメスティックな日本のおばさんでした。それでも米国では『私、映画監督よ』って大きな顔をして言えたんです。米国のスタッフたちが『わざわざ日本から映画を撮りに来てくれた。俺たちが応援しなくてどうする』って支えてくれて……。でも日本人スタッフには全然信用されていないと感じました」 「日本の映画界に居場所はなかった。でも、映画をつくるために1人で戦って、1人で作って、1人で完成させたときに、やっと東京国際女性映画祭に来て、みなさんと会って、仲間がいると実感できた」。松井さんはこう振り返ります。