母危篤も動揺を隠して歌い続けた『ブギウギ』モデル・笠置シヅ子。母の最期の望みとは…「母もこのほうが喜んでくれますやろ」
10月2日から放送が始まったNHK朝の連続テレビ小説『ブギウギ』。その主人公のモデルである昭和の大スター・笠置シヅ子について、「歌が大好きな風呂屋の少女は、やがて<ブギの女王>として一世を風靡していく」と語るのは、娯楽映画研究家でオトナの歌謡曲プロデューサーの佐藤利明さん。佐藤さんいわく「幼い頃からシヅ子は、いつも養父母や弟のことを優先してきた」そうで――。(記事はあくまで史実に基づいたものですが、ドラマの展開と重なる可能性がございます。ご注意ください) 【写真】「音楽の力ってすごい、と感じるようになった」と話す趣里さん * * * * * * * ◆弟の入営 SGD(松竹楽劇団)に抜擢され、シヅ子が上京する3ヶ月前の1938(昭和13)年1月、3歳下の最愛の弟・八郎に召集令状が届いた。 前年に始まった日中戦争は、激化の一途をたどり、若者たちが次々と召集されていた。 1月8日、香川県丸亀市の陸軍第十一師団に向かう直前、八郎は「生きて帰れるかどうかわからないから、姉ちゃんに押し付けるようで気の毒だが、僕に代わって家のことは、あんじょう頼みまっせ」とシヅ子に今後のことを託した。 何よりも家族が大事。幼い頃からシヅ子は、いつも養父母や弟のことを優先してきた。 シヅ子が資金協力をして、八郎は父・音吉と理髪店を切り盛りしていたが、唯一残った実子・八郎の入営は、音吉にとっても大きなショックだった。
◆東京へ行く決意 そこへ帝劇のSGDの話である。 松竹はOSSK(大阪松竹少女歌劇団)の給金よりも高額の月給200円を提示してきた。残された養父母を支えなければならないシヅ子にとっては、まさに渡りに舟だった。しかも引き抜きではなく、同じ松竹内の劇団への移籍である。 こうしてシヅ子は単身、東京へ行く決意をしたのである。東京のステージに立てば、将来が約束されている。今まで以上に家にも仕送りができる。 上京する前夜、養母・うめは、シヅ子を道頓堀の鰻屋に連れていった。すでに胃を患っていたうめだったが、まむし(鰻丼)を平らげて、シヅ子に「いったん、あんたを手離す決意をしたからには、まむしのようにな、わてはぬらりくらりと生き永らえて、いつまでも気ぃ長うして、あんたの出世を待ってるよって」自分や家のことを心配せずに、仕事に専念しなさいと、気丈に話した。 それから1年半、シヅ子はSGDのステージで懸命に歌って踊り、少女歌劇のトップスターから、将来を嘱望されるシンガー、エンタテイナーとして目覚ましい成長を遂げていった。