囚人にかけるお金は「出身地」で差別…「江戸時代の牢屋」はこうなっていた!
江戸時代の裁きの記録で現存しているものは、現在(2020年5月)、たった3点しか確認されていない。 【もっと読む】江戸の「監視社会」が存在を許さなかった「無宿」とは何だったのか そのひとつが、長崎歴史文化博物館が収蔵する「長崎奉行所関係資料」に含まれている「犯科帳」だ。3点のうちでもっとも長期間の記録であり、江戸時代全体の法制史がわかるだけでなく、犯罪を通して江戸社会の実情が浮かび上がる貴重な史料である。 この「犯科帳」を読むと、当時の国際都市・長崎の牢屋の「塀の中のリアル」が浮かび上がってくる。 【本記事は、松尾晋一『江戸の犯罪録 長崎奉行「犯科帳」を読む』(10月17日発売)より抜粋・編集したものです。】
牢屋を管理していた「牢屋奉行」
行動を制限する刑としては、入牢(過怠牢・永牢)、入溜、預け、手鎖があった。またそれぞれの町で「町預」にできなかった場合などにも牢屋に収容されることがあった。 基本的に牢屋は未決拘禁施設だが、例外的に永牢、過怠牢という禁錮刑に用いる場合もあった。また牢屋は斬首や入墨、敲、追放刑の執行を行う場でもあった。 江戸時代の牢屋としては、幕府の小伝馬町牢屋敷が最大で、寺社奉行・町奉行・勘定奉行・火附盗賊改が管轄する囚人が収容された。江戸町奉行の下に牢屋奉行がおかれ、牢屋の管理や行刑事務を担った。この役は石出帯刀〈いしでたてわき〉(役高三〇〇俵一〇人扶持)の世襲であり、配下には牢屋同心五〇人と牢屋下男四十数人がいた。小伝馬町牢屋敷の様子は、石井良助『江戸の刑罰』に詳しいので参照されたい。 長崎の牢屋については、安高啓明『近世長崎司法制度の研究』に詳しいが、これによると慶長五(1600)年には桜町に牢屋が設けられていたことが確認できる。時期によって変化があるが宝暦三(1753)年の『長崎実録大成』によれば桜町牢には四棟の牢屋と一棟の揚屋〈あがりや〉(上級身分の者が拘束された場所)、および牢守一人の居宅と牢番一〇人の居宅があった。この揚屋は、士分、神官、僧侶、漂流民などを入れるためのものだった。ジョン万次郎も、日本帰還時には長崎に送られ、この揚屋に入れられて取り調べを受けた。 桜町牢は長崎奉行所の支配で、牢守の下に牢番がおかれていた。基本的な構成としては、これに牢屋医師が加わる。安永六(1777)年以降、牢屋敷取締が設置され、寛政三(1791)年には牢番見習を加えて牢屋敷の管理強化が試みられている。 このほか浦上村馬込郷の街道沿いに溜牢〈たまりろう〉があった。ここでは未決囚のほか無宿・病弱者といった者たちの拘置が行われた。授産場としての機能も合わせ持った。