【「オキナワより愛を込めて」評論】人がなんと言おうが、自分の感じたことを信じて生きていい
沖縄を拠点として半世紀にわたり活動してきた写真家、石川真生。1971年11月、米軍基地を残したまま日本復帰を決めた沖縄返還協定をめぐって世論が過熱する中、機動隊との衝突で警官ひとりが亡くなった。事件を目のあたりにした18歳の胸に浮かんだ「なんでこんなに沖縄には」との訝しさが石川を写真家への道に向かわせた。米兵を撮るためコザ・照屋の黒人向けバーで働き、そこに生きる人たちと日々を、季節を分かち合い日記をつけるように撮り続けた。 【動画】「オキナワより愛を込めて」予告編 そんなひとりが自らの初期写真を振り返りつつ語る「オキナワより愛を込めて」。この自伝的ドキュメンタリーに長嶋有里枝が寄せたコメント――「運動ではなく写真を選んだという石川さんの(中略)被写体―特に女性たち―に対する愛情と尊敬に溢れる言葉」が「写真を始めたきっかけや初期の作品に持っていた信念を呼び戻してくれたような気がした」――は、同じ写真家ならではの共感にふるえ、しかしその道を歩んでいるわけではない観客の胸にもまさにと響く思いを射ぬいてみせる。「人がなんと言おうが、自分の感じたことを信じて生きていいと、石川さんのように思ってみることにする」] 実際、映画を支える石川真生の言葉はみごとに衒いなく、身構えもなく、その生き方、その行路を貫く真実を率直に放り投げてくる。作為と無縁のユーモアも湛えた言葉のくもりなさで魅了する。「私は人間中心の人だから」「すぐ行動に移すのが私のやり方」「出会った人たち、人生、面白いと思ったから」……。生の記録はそこに生まれる酷薄な「物語」にも目を凝らす。 例えば帰国する黒人兵と共にアメリカに渡ることになって3人の子供のうち、彼と血をわかっていない「日本の子」だけ残していったホステス仲間。彼女の生き方も素晴らしいと石川はひとりの選択を裁かず、「物語」を厳然と受容する。尊重する。だからこそコザを「売春街」と書き「売春婦がとった売春婦」と石川の写真にレッテルをはったマスコミの態度には今も憤りを隠さない。が、憤りはあくまで人をベースにしたもので、政治的メッセージへとそれを重ねる安易さにも彼女は抵抗する。 2017年、ニューヨーク大学でのシンポジウムで写真集「赤花アカバナ――沖縄の女」を「沖縄の女性の戦い」と評されて激怒した彼女が「私の写真は愛についてで、政治ではない」と訴えたと、「オキナワより愛を込めて」の監督砂入博史は繰り返し語っている。そこに映画の立脚点も見出したというように。 映画の幕切れ近く、ゴーストタウンと化したストリートを石川と歩き、ランチを共にする監督の姿に改めてこの人もまた、面白いと思った人を撮りたいと行動すること、裁かないことを芯にしている、その一点で被写体とで結ばれているのだと得心する。人への興味、敬意、つまりは愛が作品を熱く支えている。 (川口敦子)