「人は孤立死、孤独死をとても辛いものと強く思っているものなのだ」〝血縁〟ではなく〝つながり〟から生まれたホームレスの共同墓〈椎名誠の死生観〉
これからは「血縁」より「つながり」の墓
山友会には「元ホームレスの人の共同墓」がある、というのが今回いろいろ話を聞くきっかけとなっている。 山友会に集う人たちが亡くなったとき、家族や親族との縁が途絶えている人でも死後「無縁」とならないように、つまり生きているあいだのつながりを感じられるように彼らにお墓を、という思いから近くの浄土宗光照院に「山友会のお墓」を建立した。 資金はクラウドファンディング(プロジェクトに賛同した人からの資金援助を得るための仕組み)で募った支援総額255万円(目標200万円)を用立てた。「山友会」と白く墓標に刻まれた彼らの墓ができたのは2015年。この山友会独自のお墓の建立については光照院の吉水岳彦副住職(当時。現、住職)の尽力も大きかった。 「墓が完成したときに一人のおじさんが、ありがとうございますっておっしゃった。死んでも仲間とずっと一緒にいられるんだ、という安心感が生まれた。皆と一緒の墓に入れるんだという思いが、長いこと居場所がなかった方のひとつの救いになったんでしょうねえ」 また吉水さんはこうもおっしゃる。 「おじさんたちはけっこう散歩のついでなどにお参りにいらっしゃるようです。お彼岸、お盆、大みそかなどには集まってお参りもします。墓の完成後にお亡くなりになった3人を、2017年8月のお盆に納骨しましたが、3人まとまって、というのがいいねえ、とみなさんおっしゃっていた。仏教、キリスト教、無宗教に関係なく今は10名納骨されていますが、お骨になってもやはりみんなと一緒がいい、とみんな思っているんですね。お墓といえば家族単位、と思われていますがこれは近代になってからの形。少子高齢化でお墓の維持存続も厳しくなっている時代の流れもあります。個人的には今後はこのような〝血縁〟ではなく〝つながり〟をもとにした共同体の墓が、一般的なものになるといいなあという願望もあります」
人は孤立死、孤独死をとても辛いものと強く思っている
この共同墓を作ろう、というきっかけになったいきさつを山友会のメンバーの薗部富士夫さんの思い出からまとめよう。 10年ほど前のこと。毎日のように上野公園から歩いてかよってくる老人のホームレスがいた。通称「やまちゃん」、70歳。山友会に来ては自分にできる範囲の手伝いをして夕方になるとまた歩いて上野公園に帰る。山友会の勧めで生活保護を受給し、ドヤで暮らすことになったがドヤに迷惑をかけてしまうことがあり退去しなければならなくなった。 姿をみせなくなったやまちゃんのことが心配で皆で上野公園などに探しにいったが見つからない。1年後のある日、上野駅周辺を夜回りしていると偶然やまちゃんと出会った。一人さびしそうにたっていた。 「また山友会においで」と言うと再び戻ってくれた。そうしてやまちゃんは今度こそドヤの住人になった。彼のような人も安定して暮らすことができるような場所を作りたいという思いが今のケア付きの宿泊施設「山友荘」を作るきっかけになったという。 入居したやまちゃんはそれからしばらくして脳卒中で倒れ、なんとか回復したものの80歳を迎えたときにがんで死去した。しかし戸籍もなにもなく連絡する親族もいない、という状況だった。遺骨の行き場がない。無縁仏となると空いている共同墓地に入れられるため、どこに埋葬されることになるかもわからず、仲間との縁も途切れてしまう。 それまでもそういうおじさんのことがしばしば問題になっていたが、このやまちゃんの死が大きなきっかけになって、山友会の仲間のためにお墓を建立する話が具体的になったという。 春のお彼岸。ぼくは前年亡くなった、山友会の仲間(2人ともひとりで亡くなっていたそうだ)の納骨式に光照院に行った。その日も風の冷たい日だった。かなり大勢の山友会の仲間が来て拝礼し、線香をあげた。 人は孤立死、孤独死をとても辛いものと強く思っているものなのだ、とそれまでそういうことを考えたことのないぼくは墓という「死」の象徴的なものへの認識を寒さのなかで真剣に考えていたのだった。 文/椎名誠 写真/shutterstock ---------- 椎名誠(しいな まこと) 1944年6月東京都生まれ。東京写真大学中退。世界の辺境地区への旅をライフワークにしている。79年、エッセイ『さらば国分寺書店のオババ』でデビュー。89年『犬の系譜』で第10回吉川英治文学新人賞、90年『アド・バード』で第11回日本SF大賞受賞。『岳物語』『大きな約束』など著書多数。映画監督作品に『白い馬』など。 ----------