玉川徹、吉村洋文、山本太郎…大衆を熱狂させ炎上の的になる「嫌われ者」の正体
玉川徹、西野亮廣、ガーシー、吉村洋文、山本太郎――時に大衆を熱狂させ、時に炎上の的になるメディアの寵児たちから、なぜ目が離せないのか? 【写真】人生で「成功する人」と「失敗する人」の大きな違い 注目の新刊『「嫌われ者」の正体 日本のトリックスター』では、彼らは何者なのか、その単純かつ幼稚な「正論」がもてはやされる日本社会の問題に迫る。 (本記事は、石戸諭『「嫌われ者」の正体 日本のトリックスター』から抜粋・再編集したものです)
プロローグ 幼稚な極論に抗うために
気がつくと「ややこしい人物」「ややこしい事象」を追いかける日々が始まっていた。 毎日新聞でキャリアをスタートした私の記者時代はまだオーソドックスな取材をしていたように思う。社会部あるいは支局でも事件取材が長かったので、事件や災害があれば真っ先に駆けつけるように言われた。私がマスメディア業界では早い段階からSNSを使っていたことを周囲の記者連中からは奇異な目で見られたが、今から振り返ればまったくもって普通なことだった。そこからアメリカ発のインターネットメディアのニュース部門に立ち上げから加わることになるが、そこでもやっていたことは仕事の上では新聞社の延長線上にあった。 個人的な感覚ではあるが、新聞でやりたかったことを、より分量という枠や新聞独自の記事スタイルから解き放たれて、インターネットの世界ではより自由に取材した成果を表現できることに最大の魅力を感じていた。 しかし、そんな世界はあっという間に終わりを告げる。自由なはずだったインターネ ットの世界は、2010年代後半には政治的なスタンスやユーザーの価値観を突きつけられることになり、時の安倍晋三政権への賛否を軸にした"分断"の最前線になっていった。 ある選挙で野党の選挙戦略を批判した記事を出せば評価する声も届く一方で、「こんなメディアではなかった」「幻滅した」「安倍政権を叩けばいいのに」というコメントがそれなりにやってくるようになった。彼らが一体、どんなメディアだと思っていたのか はまったくわからないし、野党には野党の権力というのがあるはずなのだが、私が展開したかったような議論はおよそ成立しなかった。そんな状況下で記事を書けばどうしても擁護してくれる側の声に接近してしまう。自分たちの擁護をしてくれる人たちが気に 入るように書かなければいけない……。「自分の記事」ならばまだいい。だが、メディア全体の評価は一社員ライターで責任は取れない。私の意見でメディアの評価を下げてしまうのならば、合わせておいたほうがいい。無自覚にそう考えてしまう自分に気がついた私はどうしようもない虚脱感を抱えたまま、インターネットの世界から徐々に距離をとることになった。 新聞やネットメディアよりは自由に、もっと自分の名前で勝負ができる仕事はないものか。そう考えていたとき、一度だけ食事の席をともにした「文藝春秋」の編集者から一本の依頼がやってくる。 「締め切りまでの時間は短いが、玉川徹について書いてほしい」 時代は新型コロナ禍の最初期であり、彼のコメントが日々社会をにぎわせていた。まったく面識はなかったが、確かにおもしろいものが書けるのではないかという予感だけはあった。 私は会社員記者をやめた後、インターネットメディアからニュース番組のコメンテーターをやってほしいという依頼がやってきて、何度か出演していた。ある時、その番組を見たという「羽鳥慎一モーニングショー」のスタッフから、玉川が夏休みを取るので、彼の代役として出てほしいという電話をもらった。生放送ということもあり、意気揚々とコメント用のメモを作っていったが、完全に返り討ちにあった。彼のアンチといってもいい視聴者にとっても、私はよく言えばお行儀のいいコメントを話すだけの人、悪く言えばテレビというメディアをまったくわかっていないつまらないド素人だったのだ。 玉川の一言は確かに大きな話題を呼んでいるが、それは彼の発言が批判として鋭いところを突いているからではないように思えた。なるほど確かに国の政策に対して批判的ではあるが、根拠が不確かなものも混ざっているし、現実的かと問えばそうではない発言も散見されたが、しかし、なぜか視聴者には突き刺さる。彼の一言一言をいわばファクトチェックのように検証するよりも、なぜ彼の言葉は無視できないように思ってしまうのか、という問いを立てたほうが核心に迫れるのではないか。それは喜怒哀楽という感情が伝播していくテレビというメディアの特性ともつながっているのではないか。そんなことを考えられると思ったのだ。 私のレポートは玉川を観察しながら、彼の周辺を取材することで、批判的な部分はあるにせよ極端なアンチの側にも、かといって全面的な擁護の側にも立たずに一つの事象として彼の言動の根幹を分析して描き出すというものだった。古典的な手法ではあったが、古いことがかえって新鮮に映ることもある。 彼のレポートを書いてからというもの定期的に、毀誉褒貶付きまとう人々、事象をテーマにしたルポの依頼が舞い込んできた。最初は滅多にやってこない仕事だから、と消極的な思いで引き受けていた面もあったが、いざ始めてみると私もまた彼らに取り憑かれたように取材にのめり込んでいった。その理由はいったいどこにあったのか。 彼らについて総じて言えるのは一部の熱狂的な支持者・擁護者と、何があっても批判をする熱量の高いアンチとの対立を生み出すことだ。アンチは絶対に認めようとしないが少なくない人々からの確かな支持と――人によっては、だが――一定の利益を獲得している。この本のなかで取り上げる元国会議員のガーシーこと東谷義和のように、暴露系ユーチューバーから一転して刑事事件の被告人として裁かれた人物もいるにはいる。 だが、彼もまた億単位の利益を生み出し、一時とは言え芸能人との派手な交友や暴露を元手にして我が世の春を謳歌したという事実は確かに残っている。 加えて、熱量を込めて語りたくなる存在であるということも挙げられる。市井に生きる少なくない人々が彼らの存在について何かを語りたくなる。直接の利害関係はほとんどないのに、話題に上ることを欲し、何かを書き込みたくなってしまうくらい惹きつけられているのだ。 つづく「日本社会で幼稚な主張が「正論」だと人気を集めている「深刻すぎる現実」」では、多くの人が見てきた感情的な言葉の応酬が始まり、亀裂が深まっていき、やがて忘れられていくという実態を掘り下げる。
石戸 諭(記者・ノンフィクションライター)