村上春樹『風の歌を聴け』が描く戦後日本の虚無感 「日本的なるもの」の喪失を描いた透明な文学
で、これどういう構造になっているかというと、まず、この対米従属文学論でずっと論じてきたように、我々が生きているこの戦後空間というのは、捕虜収容所そのものなわけです。でも、まだ若いうちは、ここが捕虜収容所なんだってことを知らない。だけど、とにかく周りにいる人たちが皆、目が腐った捕虜のような人々しかいないし、なんとも言えない腐臭がずっと漂っている。 そんな日本に対して、もう耐えがたいほどの違和感というか、とてつもない絶望感っていうのを、うんざりした気分を深く持ってしまう。だからそれに対して、村上龍の小説のなかで書かれてたような、ミサイルで世界を潰したいっていう願望が出てくる。『コインロッカー・ベイビーズ』の「ダチュラ!」ってやつです。だけど、本当は破壊なんてしたくないんですよ。だって、自分が生まれ育った地域や国のことをみんな、好きなんだから。そうしたらどうするかっていうと、もう「逃げる」しかないんですよ。
でも逃げ場所なんてどこにもない。 藤井:そのときにもう目の前に、自分の手触りのある空間のなかで逃げ場所っていうのは、女の子しかいないんですよ。そこが初恋なんです。初恋っていうのは、初めて自分の精神の居場所を見つけた体験なんですよね。その意味で言えば、僕にとって村上春樹っていうのは、初めて僕の精神が躍動してもいい、女の子以外の世界だったんです。 川端:「トランスポーテーション」ですね。物語に入り込むんです。
藤井:そう、心理学では「トランスポーテーション理論」とかって言うんですけど、自分を村上春樹の世界にトランスポートして、そこで生きることができるような気になるんですよ。もちろん僕は、小学生の頃なら『太平記』とか『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』の特攻シーンにもトランスポートしたりするんですけど、いかんせん日常生活とかけ離れすぎてる。 ところが、春樹の描くジェイズ・バーの世界、後に「直子」と呼ばれる女の子、あるいは、4本指の女の子や、後に「ミドリ」と呼ばれるような鼻をくっつけて寝る女の子、あと『ねじまき鳥クロニクル』の世界で出てくる隣の女の子、ああいう女の子たちというのは、おそらく誰の人生の隣にもいるかもしれない女の子たちだし、実際に僕の現実世界のなかに、それぞれに思い当たる節があるんです。しかも、ジェイズ・バーのような空間で、大親友でもない鼠とひと夏しか一緒にいなかったりする関係もありえたりする。