相鉄新横浜線開通で存在感を高めた「相模鉄道」。<砂利輸送からの転換>という異色の経歴、東急を手本にするような施策に取り組んできたその歴史
『沿線格差』という言葉を目にすることが増えましたが、フリーライターの小林拓矢さんいわく、「それぞれの沿線に住む人のライフスタイルの違いは、私鉄各社の経営戦略とも深くかかわっている」のだとか。今回はその小林さんに「相模鉄道沿線の魅力と実情」を紹介していただきました。小林さんが言うには「相模鉄道が大手私鉄として認識されるようになったのは、比較的最近」だそうですが――。 【書影】関東8大私鉄の「沿線力」を徹底比較!小林拓矢『関東の私鉄沿線格差: 東急 東武 小田急 京王 西武 京急 京成 相鉄』 * * * * * * * ◆相模鉄道沿線の魅力と実情は? 神奈川県内のみの路線網ではあるものの、東急電鉄やJR東日本を介して都心に乗り入れることで知名度と存在感が大きく上がった相模鉄道。 そもそも、首都圏の大手私鉄として認識されるようになったのは、比較的最近のことである。 相模鉄道は、1990(平成2)年5月末に、日本民営鉄道協会において「準大手私鉄」から「大手私鉄」へと昇格することになった。 現在では10両編成や8両編成の列車が当たり前に走っている鉄道事業者ではあるものの、住宅地に通勤電車を走らせるという形態になるまでは紆余曲折(うよきょくせつ)があった。 そもそも、相鉄グループの源流は、橋本と茅ケ崎(ちがさき)を結ぶ現在のJR東日本相模線である。 この路線が相模鉄道として開業した。
◆砂利輸送 現在の相鉄本線にあたる路線は、1926(大正15)年5月に神中(じんちゅう)鉄道が開業させたものだ。 最初に開業したのは、二俣川(ふたまたがわ)から厚木の間で、同年4月には茅ケ崎方面から延伸を続け、厚木へと到達した相模鉄道と接続した。 当時の相模鉄道や神中鉄道は、蒸気機関車列車が中心で、砂利輸送を行なっていた。東京圏の大手私鉄としては、異色の経歴を持つ鉄道である。 人を運ぶことが第一ではなかったのだ。 その後、神中鉄道は横浜市中心部に向かって延伸を続け、1933(昭和8)年12月に現在の相鉄本線にあたる区間が開業した。 ちなみに、1941(昭和16)年11月に神中鉄道の旅客輸送は厚木へ向かうのをやめ、海老名に向かう路線になっている。 それぞれの会社は前後して東急の五島慶太の手に落ち、1943(昭和18)年4月に合併した。 しかし、戦時輸送のために相模鉄道の区間は国有化することになった。 そこで、もともとは神中鉄道だった路線が、相模鉄道となる。アジア・太平洋戦争末期から終戦直後の混乱期は、経営を東急に委託していた。
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