ソロデビュー30周年を迎えた奥田民生が、45歳でアピールをやめたワケ。ずっと憧れられる存在でいるには?
PUFFYはプロデュースではなく、新バンドだった
──本には人のプロデュースは向いていないことが、PUFFY をやってみてわかった、という話も出てきます。ただ、結果だけ見れば、PUFFY は大ブレイクしたわけで……。 でもあれは、当時俺が、そのアピール中のちょうどいい時期に、「自分が歌うんじゃなくても、こういうこともできますよ」みたいな感じで、がんばったわけでしょ? あのふたりも、オーディションに受かったばかりで、それまでなにかやっていたわけじゃないし。事務所もね……事務所がいちばん戦略とか、なにもなかったんだから。あの人たち、仲よしでいつも一緒にいるから、じゃあふたりでどうですか? みたいなさ。 誰にもなんにも戦略がないし、責任もなかったんですよ。今思うと、それがよかったよね。だから、いわゆるプロデュースをしたっていうよりも……俺はユニコーンを解散したばかりだったから、新バンドを組んだみたいな。 自分の作品を作っているようなもんだもん。キーが女の子だし、歌うのが自分じゃない、っていうだけで。そういうのだったら今でもできるよ? でもそれだと、プロデュースじゃないよね。これは本にも書いてあるけど、俺は他人のためにはがんばれないってことなんだろうなと(笑)。 ──とは言いつつ、2010年には、HiGE(髭)のシングル「サンシャイン」でバンドのプロデュースもしていましたが。 あれはね、機材レンタル屋だね(笑)。プロデューサーってことで、俺がスタジオにいて、質問されることに答えて……。だから、ほぼ俺、なにもしてないのよね。現場にいて録音してるときに、ちょっと口出しするぐらいで。バンドのメンバーがもうひとり増えたぐらいの感じだから、プロデュースじゃないでしょ?(笑)。 取材・文/兵庫慎司 撮影/濱田紘輔
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