20歳前後のカップルが車で…名古屋・通称〝セントラルパーク〟で麻薬取締官が押さえた「密売現場」
◆昭和から平成までの現場を知る元麻薬取締官・高濱良次氏の〝事件簿〟、第4回の後編。平成になって間もない’90年代、イラン人を中心とした不良外国人の出現や、通信機器の発達によって、薬物はより身近で手に入りやすいものとなってしまった。巧妙化する薬物犯罪に対して「マトリ」が取った捜査方法とは──。 【巧妙な手口で…】「摘発逃れ」のためにチームで動く密売組織の〝手口〟 【前編】『「薬物のネット販売も」イラン人による路上密売、通信機器の発達が薬物取引きを一変させた‘90年代』 ◆通り過ぎる車に向かって手を上げる怪しいイラン人 不良外国人の出現は、これまでの暴力団を中心とした密売のやり方から大きく様変わりし、麻薬取締官や警察官などの捜査機関は、それに危機感を抱いて本格的にその摘発に乗り出しました。その一例が次の事犯であります。私自身はこの事件には関与していませんが、特異な事犯なので、ここで取り上げることにします。 舞台は、名古屋市の中心街にそびえるテレビ塔のふもとでした。〝セントラルパーク〟と呼ばれる久屋大通公園の一角の外縁で、1人のイラン人男性が、通り過ぎる車に対して片手を上げてタクシーを止めるようなしぐさを繰り返している奇妙な光景が見られました。 ほとんどの車は、この男性を意に介することなく通り過ぎて行きましたが、しばらくすると、それに応えるように20歳前後の日本人カップルが乗った車が不意に停まりました。そして、運転席に近寄ってきたイラン人男性に、運転手の若い男性が金を渡しました。 すると金を受け取ったイラン人男性は、公園の中に小走りで向かいます。イラン人男性は公園内の植え込みの中に手を伸ばして白い袋と注射器を取り出すと、すぐにそれらを持ってカップルが乗った車に駆け戻り、運転席の若者に渡したのです。 この取引の一部始終の場面を、その場で張り込みをしていた東海北陸地区麻薬取締官事務所が、隠し撮りしていました。同事務所はイラン人密売組織の摘発のため、1999年(平成11年)4月、特別捜査本部を立ち上げましたが、先程の場面でも見られたように密売人は薬物を持ち歩かないために、譲り渡しの現場を押さえることの難しさが明らかになりました。 ◆「おとり捜査」を決行! すると… このことから、同事務所では組織解明のためには「おとり捜査」が必要不可欠と判断。10月から11月にかけて、おとり捜査官による買い取りを3回行い、取引現場の撮影にも成功しました。 定点での張り込みにより、密売人の現れる時間や客引きする順番が決められていること、順番待ちの客引きは公園内で待機すること、さらには複雑な取引になると、日本語が割合堪能な元締めが、顔を出すことも判明しました。この元締めの男は、いつでも臨機応変に対応できるように〝セントラルパーク〟の近辺を車で転々としながら待機していました。また彼らの薬物隠匿場所把握のための張り込み・尾行の日々を経て、その割り出しに成功したのです。 おとり捜査官による3回の買い取りのうち、1回目の取引状況を再現しますと、次のような光景が見られました。 おとり捜査官が、その現場に行って佇んでいた密売人に声をかけると、「薬なんでもあるよ」と誘ってきました。そこで「MDMAはあるか」と問いかけますと、その場で密売人は、携帯電話を手に取り、どこかに電話をかけ始めました。 すると数分後、自転車に乗った別の仲間が現れました。その男がおとり捜査官にMDMAを渡すと、さらにその数分後には元締めの男が車に乗って現れて、おとり捜査官から代金1万5000円を受け取りました。元締めの男は、「この場所は危ないので、次からはこの番号に電話してくれ」と言い、携帯電話の番号が書かれたカードをおとり捜査官に渡してきました。 このような3回にわたる買い取りの映像が、決め手となり、元締めの男性と配下の他の5人の密売人を、麻薬及び向精神薬取締法違反で逮捕し、グループを壊滅させることができました。逮捕当初、彼らは全員容疑を否認していましたが、撮影したビデオを見せると、大半は、観念して容疑を認めたといいます。 この粘り強い捜査で、MDMA16錠の他、覚せい剤24g、乾燥大麻864gなどを、隠匿場所から押収するとともに、売上金と見られる現金202万円も差し押さえました。面白い点は、価格設定であります。覚せい剤は、0.3gで1万円、乾燥大麻は、0.8gで5000円と、若者でも買いやすい価格にしていました。 ◆イラン人の後に台頭してきたのは… この事犯を見ても分かるように、「薬物汚染の低年齢化」や「公園で気軽に薬物を手に入れられるという異常な状況」が浮き彫りになった事犯であり、当時の世相を反映していると言っても過言ではありません。これらイラン人密売グループの背後には、暴力団の存在が見え隠れしておりました。 このような摘発を逃れたイラン人密売グループは、密売場所を都市中心から郊外へと移して密売を続けていましたが、捜査機関の摘発による影響から、その勢いも衰えました。その代わりに台頭してきたのが、SNSなどのインターネットを利用した通信機器の知識に長けた一般人やほんの一部の暴力団関係者。彼らによる薬物密売の実態が、新たに明らかになってきました。 薬物の密売行為は、本来暴力団の専売特許でありましたが、このように大きく様変わりしたことで、一時は沈静化していた薬物蔓延に拍車がかかりました。1989年(平成元年)には、検挙者が2万人を割り、それ以降は年に1万5000人前後で推移していました。しかし、1996年(平成8年)には2万人弱、1997年(平成9年)も同様の人数が検挙されるなど増加傾向を示したため、「覚せい剤第3次乱用期」と政府は認定しました。1998年(平成10年)には検挙者は少し減少しましたが、依然として高い水準で推移し、予断を許さない状況にあったのです。
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