【追悼】谷川俊太郎 幻の矢野顕子&坂本龍一作品の存在ーー交流あった元編集長が振り返る才能と影響
連載が終わった後も続いた交流 詩人・谷川俊太郎という人
―――連載が終わった後も谷川さんとの交流は続いたのですか。 『いちねんせい』が出た時に、帯で読者からの詩の募集を行って谷川さんに選考委員になってもらいました。本の宣伝のためでしたが、良い詩があれば本にしようと思っていました。「児童の権利に関する条約」(子どもの権利条約)が1994年に日本で批准された時には、小学館で権利条約を中学生が訳した本として『子どもによる 子どものための「子どもの権利条約」』を作ることになって、谷川さんに協力していただきました(1995年発売)。JCBの会員誌「THE GOLD」の編集を請け負っていた時にも、谷川さんにずっと連載してもらいましたし、小学館を退社してからも、大月書店で企画した「考える絵本」シリーズで『死』を書いていただき、本ができてからも千葉県柏市の子どもの本専門店でのトークイベントにも来ていただきました。2021年の11月に、お宅に伺って雑誌『飛ぶ教室』のインタビューをしたのが最後になりました。 ――振り返って、谷川俊太郎という人はどのような人物だったと思われますか? とにかく、いろいろな意味で好奇心の塊だったと思います。新しいことや珍しいことにものすごく興味を持っていましたし、メディアにもいろいろと目配せをしていたのではないかと思います。今のようにアクションカメラがなかった時代に、猫の頭に小さなカメラを付けて1日走らせて記録してみたら、なんて寺山修司さんとの対談で話していたことがありました。最近も、散歩ができなくなったからといって、90歳も近いというのに家の中にエアロバイクを入れて漕いでいました。最後まで前向きな方でした。 ――一谷川さんの詩作などで残した言葉の使い方や表現の仕方は、これからの時代にも必要だと思いますか。 思います。ひらがなにすると、漢字で見るときとは感覚が全然ちがうんです。「馬鹿」と言うときも「ばか」とひらがなで書くことで少し柔らかい感じがして、相手の傷つき方も違ってきます。谷川さんが残されたひらがなで表現してきたことの影響は、読んだ子供たちにも日本語での表現の仕方にも、何らかの影響を残しているのではないでしょうか。今、言葉に対して敏感になっている部分があります。方言への関心が浮かんでいることもひとつありますし、あとはSNSなどの普及で言葉がいろいろな形で氾濫している中で、本来あるべき言葉とは何だろうかといった関心や興味が深まっている感じがします。 ―――そうした時代だからこそ、谷川さんのひらがなによる詩作の世界が何か指針を与えてくれそうですね。本日は野上さんの後輩にあたる小学館第一児童学習局学習誌編集室編集長の明石修一さんも同席しています。現役編集者として今の小学生たちに谷川俊太郎さんのことばは必要でしょうか。 明石修一編集長 谷川さんの詩に反応する感性は今の子どもたちの中にもしっかりとあって、だからこそ今でも『いちねんせい』がロングセラーになっていると思います。これからも触れて感じて欲しいという気持ちです。昔と今とでは同じ小学生でも変わっている部分があります。時代に応じて変化していくものですが、『わるくち』に書かれている友達とのやりとりのような、小学生が本来持っている感性には変わらない部分もあります。僕たちが子どもたちと向き合う時には、そうした変わらない部分を大事にしていかなくてはいけないと思っています。 ―――本日はありがとうございました。 野上暁(のがみ・あきら) 本名・上野明雄。1943年生まれ、児童文学評論家・研究家、作家、日本ペンクラブ常務理事。中央大学を卒業後、1967年に小学館に入社し『小学一年生』編集部に配属、『小学三年生』を経て『小学一年生』に戻りデスク、編集長代理から編集長となる。以後、児童図書、一般書籍担当部長を経て小学館取締役、小学館クリエイティブ社長を歴任。著書に『おもちゃと遊び』『子ども文化の現代史 遊び・メディア・サブカルチャーの奔流』『小学館の学年誌と児童書』、共著・編著に『子ども・大人』『わたしが子どものころ戦争があった 児童文学者が語る現代史』などがある。長野県出身。
タニグチリウイチ