ジャワは天国、ビルマは地獄、生きて帰れぬニューギニア…日本軍兵士が、「死んだら靖国神社には行きたくない」と懇願した理由
拉孟戦とは何か
ビルマ戦線といえばインパール作戦。戦史上最悪の作戦と揶揄される、まさに「地獄のビルマ」の代名詞だ。2020年から全世界に蔓延したコロナ禍で日本政府の諸々の愚策を「令和のインパール作戦」と批判するSNSをちょくちょく見かけた。現代でもインパール作戦のネガティブな影響力は半端ではない。 ところで、同作戦の失策(1944年7月中止)の挽回を掲げて、ビルマ防衛作戦の「最後の砦」として敢行された中国雲南省の拉孟戦(1944年6月~9月)となると、その認知度は途端に低くなる(*4)。雲南の戦争がなんでビルマ戦線なの? という素朴な疑問はもっともで、鍵となるのは「ビルマルート」。ビルマルートとは、英米連合軍による蔣介石軍を支援する補給路の一つで、別名「援蔣ルート」。日本軍はこの補給路を何としても遮断し、蔣介石の息の根を止め、泥沼化した日中戦争にケリをつけたかった。そこでビルマルートの重要な軍事拠点として注目されたのが雲南省西部の2000メートルの山上の拉孟。この地は古くからシルクロードとして栄えた交通の要衝だった。ちなみに拉孟とは日本軍が勝手に付けた名前で、現地では松林の山なのでシンプルに「松山」と呼ぶ。 1944年6月から拉孟守備隊約1300名は、物量、兵力ともに雲泥の差の中国軍4万余の猛攻と兵糧攻めにも耐えながら100日余の死闘を繰り広げるが、9月7日に力尽きて「玉砕」した。アッツ島やサイパン島などの洋上の孤島ならいざ知らず、陸続きの山上での「玉砕」は戦史上類がない。最後まで「死守せよ」。これが軍司令部の命令であった。 私は2012年と2019年、2回拉孟を訪れた。200メートル四方の山上陣地の眼下に大蛇の如く蛇行する怒江が流れ、恵通橋という吊り橋が架かっている。山頂からの眺めは圧巻だ。日本を発ち航空機を何度も乗り換え、雲南省に入ってからも滇緬公路(中国のビルマルートの呼称で滇は雲南、緬はビルマ)を車で延々と走り続けた。中国大陸はとてつもなく広い。雲南独特の赤土の山肌が続く。七十数年前もこのような景色を見ながら(といっても夜間行軍が多かったが)兵士らは歩いて、ひたすら歩いて、拉孟までたどり着いた。気が遠くなるような道程だ。2012年に一緒に拉孟を訪れた元兵士の平田さんは「通常装備に加えて40キロの弾薬箱を担いで、滇緬公路の石畳を見ながら黙々と歩いた」と語った。平田さんは初年兵。弾薬箱を降ろして息つく暇なく分隊全員の飯炊きが待っていた。 平田さんは、日本兵と中国兵の最下級兵士の「共通点」を2つ教えてくれた。一つは、自分にかまう時間がないので軍服や身体が一番汚れている。もう一つは、日本兵は全員の飯盒を担ぎ、中国兵は大きな「支那鍋」(当時、中華鍋をこう呼んでいた)を背負っているのが一番下っ端。ある時、川のほとりで支那鍋に出くわした平田2等兵は、とっさに互いの立場を悟ってなんとも不思議な共感を覚えたそうだ。「腹が減っては戦ができぬ」。交戦は二の次で、別々に米を研ぎ、そそくさと部隊に戻った。 * * * (*1)アジア・太平洋戦争における日本の海没死者の数は35万人以上で、日露戦争の戦死者約9万人と比べてもとんでもない数である(吉田裕『日本軍兵士 アジア・太平洋戦争の現実』中公新書、2017年、42頁)。 (*2)全ビルマ戦友団体連絡協議会編纂委員会『ビルマ・インド・タイ戦没者遺骨収集の記録「勇士はここに眠れるか」』1980年、17頁。正確な数は兵力32万8501人、戦没者19万899人。 (*3)藤原彰『餓死した英霊たち』青木書店、2001年、84頁。藤原はビルマ戦線全体の餓死や傷病死を、あるインパール作戦の事例から78パーセントと算出している。 (*4)拉孟戦の詳細については、拙著『「戦場体験」を受け継ぐということ ビルマルートの拉孟全滅戦の生存者を尋ね歩いて』(高文研、2014年)を参照。 * * * さらに、本連載では貴重な証言にもとづく戦争の実態を紹介していく。
遠藤 美幸(ビルマ戦史研究者)