ジャワは天国、ビルマは地獄、生きて帰れぬニューギニア…日本軍兵士が、「死んだら靖国神社には行きたくない」と懇願した理由
「地獄のビルマ」の実態
さて、「地獄のビルマ」とはいかなるものか。 生きて帰れるといっても、生還率は三分の一。ビルマ戦では、約33万人の兵力が投入され、19万人以上が生きて帰れなかった(*2)。元兵士たちは「わしらの両脇には死んだ戦友がおるんだ」と両腕を振って語る。実は、戦闘で死んだ兵士は少数派。戦死者の8割近くがマラリア、赤痢、脚気、栄養失調などが原因の餓死や傷病死で、彼らの大半が戦争神経症を同時に患っていたという(*3)。なかでも補給を無視したインパール作戦(1944年3月~7月)の敗残兵の消耗は甚だしく、ジャングルの中で動けなくなって座り込んだらそこが死に場所になった。 ある朝、同じ部隊の兵士が「今日は前を歩くから……」と笑みを浮かべてトボトボと先に歩いて行った。その後ろ姿を見送った同年兵はイヤな予感がしたそうだ。案の定、先に行った兵士は木に寄りかかるようにして息絶えていた。 「こんなジャングルで死ななくてはならない無念なわが身を、せめて同年兵の私に看取ってもらいたかったのだろう」 北ビルマのフーコンの雨期の雨量は尋常ではない。高温多湿のこの辺りは遺体の白骨化がすこぶる早かった。現地ではフーコンは「死の谷」と呼ばれる。三八式歩兵銃や防毒マスクや鉄帽などの軍装備は栄養失調で衰弱した身体には相当こたえる。銃剣を杖にする兵士もいたが、装備を軽くするため捨ててしまう者もいた。それでも最後まで……死んでも手離さなかったのが飯盒だった。 「彼の目や口や鼻、穴という穴に蠅が真っ黒にたかって、蛆がボロボロこぼれ落ちてきて……こっちも体力もないから埋めてやることもできなくてね、小指を軍刀で千切って持ち帰るのが精いっぱいだった。それもいつのまにかどこかに落としてしまって持ち帰ってやれなかった……」 戦場では、遺体を焼いて骨を拾うのではなく、指を切り取り、飯盒炊さんの時に焼いて骨にするのだ。 さらに兵士を看取った同年兵は語った。 「遠藤さん、何十年も前だが、慰霊祭で彼の身内に会ってもね、本当のことは話せなかったよ。何でも本当のことを話せばいいってもんじゃないんだ」 事実だけが「真実」ではない。本当のことが話せない、あるいは嘘をつかざるをえない、そこに「真実」が隠されている。そして「真実」を明らかにしたからといってそれで終わりではないのだ。事実を探求する歴史研究者の端くれとして肝に銘じておきたい。 20代から30代の若い兵士らが飢えと傷病に身も心も蝕まれ、道なき道に白骨化した屍を累々と重ねる惨状は、間違いなく「生き地獄」である。兵士たちはインパール作戦の退却路を「白骨街道」あるいは死んで靖国神社で会おうという意味で「靖国街道」と呼んだ。忘れてはいけないのは、これは日本兵に限ったことではないということだ。ジャングルには英印兵も、時に現地住民の屍も散乱していた。屍に国籍も民族も階級も性別も年齢も関係ない。 木に寄りかかって死んだあの兵士は、生前、同年兵に「死んだら靖国神社には行きたくない。俺は故郷に帰るからお前もそうしろよ」と語ったそうだ。