【連載】愛さえあれば不安はかき消せるのか/三浦瑠麗氏連載「男と女のあいだ」#5 不安に悩む人へ
国際政治学者やコメンテーター、そしてエッセイストとしても幅広く活躍する三浦瑠麗氏によるエッセイ「男と女のあいだ」。夫と友人に戻り、「夫婦」について改めて思いをめぐらせるようになったご自身のプライベートや仕事、過去を下敷きに「夫婦」を紐解いてゆきます。連載第5回は、「不安へのアプローチの仕方」についてお届けします。 【写真】誕生日に訪れたヴェネツィアの夜の水路 本人提供写真 ■#5 不安に悩む人へ 旅に出ようと思ったのは、眠りがどうも浅くなっていたからだった。夜、倒れ込むように寝に落ちるということがなくてつい夜更かしをし、子どもを送り出してから朝寝をするようになったら、夜よく眠れなくなった。原稿を書くには夜から朝にかけてが一番いい。それは子どもを育てたり家事をしたり、昼間人と会う仕事をしながら、ひとりになって書き物をする時間を確保するために編み出した知恵だったのだけれども、本当に寝不足でがむしゃらに働いていたころよりも、まとまった時間寝られないことをストレスに感じるようになった。 その気になれば寝たいだけ寝られるにも拘らず、却って睡眠に過度な神経を使うようになったのである。若い頃に良く知っていた、なじみ深い目的の空白ともてあました時間が突然帰ってきたのだから、この感じは初見ではなかった。そういう時は、場所を変えて動いた方がよい。 そこで、突然思い立って今年はイタリアで誕生日を過ごそうと思った。歳の離れた妹とわたしは、どういうわけか同じ誕生日を共有している。妹夫婦と落ち合って一緒に過ごした今回の北イタリアの旅では、一度も不眠になることはなかった。見るもの聴くものが趣と変化に富んでおり、朝から晩までよく歩き回ったからである。これまで、研究する対象が海外であったのもあり、イスラエル、イギリス、アメリカなどにはよく旅をしてきた。だが、イタリアはわたしにとって特別な場所だった。初めて行った外国だったというのもある。 生まれつき出不精なせいか、旅に出る前には決まって億劫な気持ちに襲われる。そもそも娘によく指摘される通り、わたしは荷造りがあまり得意ではないのである。それなのに、直前にならないとスーツケースを出そうとさえしない。ただ、いざ到着すれば旅に出たことを後悔したためしはない。向こうでは、日がな一日歩き回ってヴェネツィアのバーカロめぐりをしたり、湖畔の料理教室で生パスタやティラミスを作ったり、ヴェローナの古代からある今も使われている劇場を見学したりした。夜も更けたころ、こぢんまりとした音楽会からの帰り、宿のある少し離れた場所へと石畳を歩きながら、昼間の喧騒がまるで嘘のように色とりどりのボートが静かに水面に浮かんでいるのを見て、東京では夜の散歩に出る機会が少ないのを想った。 日本へ帰る日、日昇前にヴェネツィアの水路を白波立てて水上タクシーに飛ばしてもらい、空港に向かう。もう旅が終わってしまうのが名残惜しかった。娘を船室に残し、わたしは高速で走るボートの上に立っている。広い運河に出るとまるで街灯のように見える灯りが暗い水面に点々と立っており、それらが先へ先へと舟を導いていた。それを見て、思った。やはり不安の中身を知ることが一番大切なのだと。不安とは、人生における未知のものへの不安である。生きることとはすなわち知られざる明日を目の前にして生きることであるし、未知の「死」に向かって突き進んでいくことでもある。そう考えれば、わたしが抱いていた睡眠への不安は睡眠そのものへの不安ではなく、不安に陥ること自体への恐れ、すなわち安定への渇望であった。 人間の不安は些細なことにも関わっている。旅行を前にした憂鬱、社交に対する憂鬱。いずれも始まってしまえば、さして大変なことではないのに。心配性の女性が抱きがちな不安というものもある。映画だと、さしずめダイアン・キートンが得意とする役どころと言えようか。幸せとはこうあるべきだとあれこれ思い描くがゆえに不安が生じる。例えば、久々に集う家族の集まりは素晴らしいものでなければならない。したがって、空白をどのように埋めるかについて神経を尖らせる。完全でなければ、という思い込みに囚われすぎて、何気ない余白を、いま自分の手元にある絵の具で塗りつぶしてしまうのだ。 こうしたことはあまりに普遍的すぎて取り立てて述べるほどのことはないし、わたしたち人間に共通する当たり前の行動である。自己嫌悪も不安につきものの要素だろう。わたしたち人間は不安や自己嫌悪に襲われるのが苦痛なので、不安の存在自体を恐れる。それでも人間である限り不安は消えず、それと付き合ってやっていくほかはないのである。 不安の中身を知ることが大事だと述べたのは、それが転地効果のような実用的な緩和策と繋がり合って、癒しをもたらしてくれるということを意味している。不安を感じている事実に恥を覚える必要はない。むしろ不安を感じていると自覚できないことの方がより大きな問題なのではないかと思う。自分は生に関して一切の執着を持たないとわざわざ宣言する人の方が、不安の存在を認められないという意味で怖がりだからである。 わたしたちは半ば本能的に、動く側、物事を変える側であろうとする。人間が自らの力を恃(たの)み、世界をどうにかできると思い込むのは、偶然生まれ落ちた不条理なこの世界に抗し、人間という測り難い生命体である自身を何とかコントロールして、「意味ある存在」たろうとする抵抗のようなものだ。それは、人間にとって初めから敗北が運命づけられた戦いでしかない。歴史的偉業とか、名を成すといったことの意義を否定するつもりはないのだが、それらはあくまでも人間の抗いの中で、生まれた傍から古びていく限定的な戦績の記念碑に過ぎないということだ。だから、希望という爆弾を抱えて必死に生きようとするのはとても人間的なことだが、不条理との向き合い方は、不安を抱えて生きようとする己を見つめることでしかない。 わたしにとっての不安とは、比較的幼い頃から決まったものだった。この世の中を、そして自分自身を愛せないのではないか、という疑いが絡まった厭世(えんせい)的な憂鬱である。そこから踏み出す上で癒しとなったのが、読むこと、そして書くという創造的行為だった。読むことで歴史を遡って他者とまみえ、書くことでまた他者と繋がる。その自らの来歴に鑑みれば、気分が乗らず何も生み出せなくなるということは、すなわち自身が置かれた孤独やそれに向かい合う精神をどこかでコントロールできなくなるかもしれないという不安に繋がった。ただ、それが分かってさえいれば、問題はないのである。書けるようになるまで新しいものを見聞きし、放浪したりして待てばよいのだから。 自己嫌悪は内省の初めの段階であり、そこに留まっていると自分や世の中に対する厭(いと)わしさに囚われてしまい、その先へと続く階段を降りてゆけない。不安の中身を理解することで初めて自らの行動を解釈でき、一段深い所にある自己の存在を見つめることができる。自己嫌悪になりにくい人というのは、要は自己正当化能力が高いのだろう。ただ、そういう人は目的に向かってまっすぐ最短距離を走って行けるかもしれないが、内省がもたらす豊かさとは無縁である。自己を正当化し、合目的的な行動だけに専念すれば幸せになるとも限らない。周囲を気にしないというのは、よほど魅惑的な人でない限り、やはりどこかで孤独に直面する場合があるからである。 ◆ 不安に対応するもうひとつのやり方には「動くこと」がある。動きには、文字通り動くことも含まれる。汗をかくまで運動したり、陽の光を浴びて一時間でも二時間でも草むしりをすれば、疲れきって大抵の憂鬱は解消する。場所を変えれば気分も変わる。不安を動きで解消しようとするのは、人間にとって自然な習性なのだろう。 ただ、転地療養や適度な運動のように心身の健康に良い動きもある一方で、敢えて自らを痛めつけるような行動も世の中には存在する。例えば、リストカットを繰り返す人は不安ゆえに、傷をつけることによって倒錯的な安心を求めるのだし、度を越したギャンブル依存などもそうした自虐的行為のうちに入るだろう。不安によって自己を苛(さいな)むような状況は、そうした習性を持たない人からするとまるで真意が掴めない。アメリカでオンライン賭博にのめり込み我を失っていたことが明らかになった人の件でも、日本の世論には通常の人の思考回路で何とか理解を試みようとする意見が目立った。それは当たり前といえば当たり前のことで、自尊感情と自虐性が撚り合わさった独特な不安の発露を本当に理解できる人というのはこの世に少ない。 ドストエフスキーによる自伝的要素の強い小説『賭博者』に出てくる主人公のアレクセイはその典型像であろう。彼はマゾヒストとして描かれているが、ギャンブルの自虐ループから抜け出られなかった主人公は、恋愛においても一見マゾヒスト的な態度を取りつつ、結局は愛する人を踏み躙(にじ)る。自尊感情はエゴイズム抜きに成り立たないし、それがあるからこそ不安も高まる。自らを痛めつけるような行動を敢えてとってしまうのも、本当は不安のなせる業なのだ。 人間はエゴなしに生きていくことは不可能だが、エゴの存在は不安を拡張する。人によっては、他者や自身を苛む攻撃を意識的に繰り返すことで、不安をもたらす大本の不確実性、運命そのものを制御していると思い込みたがる厄介な生き物なのだ。そこから、生きることに纏わる欲求の問題が出てくる。これを内部的な欲求に求めずに、外部的な刺激に求めすぎてしまうと、満たしても満たしても本当には満たされないという状況が生じる。何かに衝き動かされたような感じに人がしばしば耽溺(たんでき)するのは、外部的な刺激によって触発された衝動に身を任せているのにすぎない。その場合は、たしかに興奮すれども、その都度不幸を感じることになってしまう。自らの真の望みにつれなくして、外部から受ける刺激に従うというのは、ある意味で自傷的な行為であるということだ。 したがって、そのような状況から逃れるためには自らの不安と向き合うしかない。そして、長期的に不安を和らげてくれるものを探すしかない。わたし自身が見出したように、読むことや書くこと、あるいは料理をすることや絵を描くことである人もいるかもしれない。スポーツに打ち込み、あるいは山を登る人もいるだろう。ただ、人間である限りは自己の存在を超えて他の仲間を必要とする。幸せとは何か、というのは一概にはいえないだろうが、自分を大切にしながら不安を宥め、長年の持病のようにそれと付き合っていく道を見つけることが必要なのだとしたら、友情や愛情ほどそれに向いているものはない。 何事にも愛を持ち出すのは、いささか牽強付会(けんきょうふかい)であると思う人もあるかもしれない。しかし、友情にせよ男女の愛にせよ、愛の素晴らしい所は、例え不完全であっても相手のことを思う点にある。全てのものにその都度意義と見返りを求めれば、その人に向けられる愛や友情を減らし、最終的に孤独な生にしてしまう。合理性を仮定するモデルは、戦いや資本主義には相応しいけれども、人間関係の構築には相応しくないのである。それに、失うものを持たない人の言うことに、誰が耳を傾けたいであろうか。必要なのは、自虐でも自己犠牲の精神でもなく、予め与えられた不完全な他者への赦しなのである。 友情はその点、分かりやすい。しかし、男女に関しては、その愛を欲望ゆえだと勘違いする人は少なくない。けれども、欲望が純粋に欲望だけで存在していることは稀で、多くの場合は欲望自体が不安に根差している。その不安からの逃れ方として、どのような愛を培えば救われるのかということを考えてみたい。 ◆ 不安と一口に言っても、様々なものがあるだろう。死と孤独への不安、自分が世界において唯一無二の存在であるという感覚や自尊感情が傷つけられることへの不安。孤独への不安は、他方で自ら心身をコントロールする自律性を失ってしまうのではないか、という不安ともせめぎ合う。わたしたちはこうした不安から僅かな間であるとしても逃れることを望むので、安心した、と感じた状況を繰り返し再現しようとする。 性的な行為には距離感の消失が伴う。例えば、反発や魅力など何らかの反応を自分から引き出すような相手に対して、性的に親密な行為が起きると一挙に距離が無くなる。縮まるのではなく、ふっと消えて無くなるのである。しかし、相変わらず二人は別個の存在であり他人同士なので、離れれば「別人」に戻る。ただ、心の方はその感覚を覚えているとみえ、その人のことを親しみの感情を持って見るようになり、もう一度その時の感覚を取り戻したくて相手を求める。これを欲望とみるのか、不安とみるのかは視る深度の違いによる。逆に、相手との関係性が定まった不安の少ないカップルに、性的な結びつきが弱まっていくという話もしばしば見聞きする。そう考えてみれば、恋だとか性だとかといったものは、生殖という目的を別にすれば、人間が生きることに伴う不安から逃れるための一つの手段に過ぎなかったことが分かる。 恋愛の過程では、友情とは異なってひとりの人のみを愛するため、しばしば、却って不安が募ってしまったり、心の痛みをもたらしたりする。多くの場合、相手は「完璧」ではない。性格上の欠点というよりも、それは愛し方をよく知らないところからきている。 自主自律を重んじるあまり、他人に心情をほとんど明かさない人が人を好きにならないわけではないが、そういう人に限って不要な恐れに繋がるとして「余計な思考」を退け、その結果大した努力も払わずに相手からの好意を当然に得るものとばかり思いこみがちである。また、他人と深く関わることが出来ず、一夜だけの関係しか積み重ねられない人は、不安を浅いレベルで折々に解消しつつ生きているに過ぎない。人によっては、日々あまりにも強い不安に脅かされているため、不安が高まる状態に陥ることの予兆さえ恐れている人もいる。 例えば、芸能に生きる人の不倫スキャンダルなどが問題になるたび、表舞台での貌と裏での貌のギャップが問題視されるが、表において極度の緊張と演技を強いられる人間に強い不安がないとすれば、それこそ人間として異常なのだ。ただ、交際相手が、自分は不安解消の道具として利用されただけだったと感じたならば、それが自ら進んで入っていった不倫関係であったとしても、不満の表出は一気に「告発」の装いを帯びる。 自我を支えるために他者の感情や身体を利用しようとすることは、不安から根本的に逃れるのに役立つわけではなく、大きすぎる不安を両手で抱え込んだまま、それを手放したくなくて、転げるように坂を下っている自分の状態・姿勢を保持するためにやっているに等しい。だから、そういう人に想いを懸けても、いったん何かにぶつかって破綻するまでは救ってあげることができないし、無駄なのだ。差し出された愛情によって心臓の質量が減るわけではないのだから、与えた側はその分何かを失いはしないのだけれども。 しっかりと愛するやり方さえ学べば、友情ではなく男女の仲であったとしても、与えあう関係が育めるはずだ。わたしたちは、相手が未熟であり、自分自身も未熟であることを前提に、互いに幸せをもたらす功利的ではない人間関係を作っていくしかないのである。