「365GTB/4デイトナ」の出没情報を聞いて張り込み! フェラーリへの憧れは遅効性で人生を変えてしまいました【極私的スーパーカーブーム】
ブーム終了後もフェラーリへの憧れは心に残った
また、拙いながらもスーパーカーのイラスト(らしきもの)を描いていたことから、同級生たちからカウンタックやBBの絵を描いてくれとせがまれたりして、それまではどちらかといえば目立たないタイプだった(はずの)筆者に、ひと時の人気者の時期が訪れたのだ。 ところが、1977年も後半にさしかかったあたりからスーパーカーブームが下火となると、筆者の私的スーパーカーブームもあっけなく終了のときを迎えた。 そして1980年になると「自動車趣味の本」を自称する『スクランブル・カー・マガジン』誌が創刊し、そちらも併読するようになると、エンスー系のクラシックカーへと個人的な興味が移行。ただ、フェラーリへの憧れだけを心に残すこととなる。
初めての愛車はベルトーネデザインのフィアット X1/9
そんな筆者のなかで、スーパーカーブームの私的影響が明確になるのは、むしろ大学生になってからのことだった。いわゆる「大学デビュー」を経て、初めての愛車を手に入れるにあたりMG「ミジェット」や「MG-B」と比較して悩んだ挙句、同じ小型スポーツカーでもスーパーカー的な要素があるフィアット「X1/9」を購入してしまう。 この時代におけるホントの陽キャならば、当時の学生の憧れの的だったホンダ「プレリュード」やトヨタ「ソアラ」あたりに食指を伸ばすところながら、ここへ来てもフィアット X1/9に飛びついてしまったのは、フェラーリ好き。スーパーカー好きのクルマオタクとなっていたからに相違ないだろう。 また、フェラーリの生まれた国をこの目で見たいと思い、学生のうちから幾度となくイタリアに貧乏旅行を繰り返し、電車とバスを乗り継いで「マラネッロ詣で」も果たすことができたのだが、それも普通の学生からしてみたら、ドン引きされてしまいそうな行動に違いあるまい。 さらに4年生になって就職活動が始まると、いくつかの総合商社を回った結果として、当時はフェラーリの日本総代理店だった「コーンズ&カンパニー・リミテッド」に就職。実を言えば、ほかの部門を希望していたのに自動車部に配属されたあたりから、この世界で生きてゆこうと腹をくくる。 そして、その後のイタリア留学からブガッティへの再就職に至るまでの行動はすべて、小学生時代のスーパーカーブーム以来ずっと培われてきた志向性によって導かれたものと考えられなくもない。 すなわちこれらはすべて、遅効性の私的スーパーカーブーム。今では、そう思うのである。
武田公実(TAKEDA Hiromi)
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