【特攻攻撃から80年】「わしは軍神になるんやぞ」と笑いながら出撃した息子を見送った母が三十三回忌で初めて流した涙
「話がある。実は特攻隊を志願した」
少尉は、陸軍に進んだ後、知覧飛行場から出撃するまでに二度、実家に帰っている。 一度目は昭和19(1944)年暮れ。突然、実家に戻ってきた少尉は、両親や兄弟が揃うといきなり、「話がある。実は特攻隊を志願した」と告白した。 家の中は一瞬、静まり返ったが、父親の介造が、「そうか」と一言言って頷くと、母親の時代が「伸一、お国のためにしっかり手柄立てるんやで」と大きな声で言い、少尉の手を握りしめた。涙はなかった。 当時、中学3年生だった小松は、時代の毅然とした態度を覚えている。 「家族全員で頑張れと応援した。特攻隊は必ず死ぬのは分かっていたが、それより、息子に国のために役立ってもらいたいという思いの方が強かったのだと思う。兄貴の特攻志願は中西家にとって誇りだった。 当時はどこの家庭でもそうだったんでしょう。かわいそうとは思わなかった。私自身も、戦争が長引けば、当然、行くべきだと思っていたし、覚悟もできていた。男として当たり前の道だと思っていた」 少尉は1泊して帰って行ったが、家族で見送りをした記憶はないという。 年が変わり昭和20年になると、新聞やラジオは連日、特攻隊の出撃を報じた。 夕食時に父親が何度となく、「伸一もそろそろ突入する時分やろな。否、もう出撃したかもしれんな」と話すようになった。 時代も、「そうやな。もう突入しているかもな」と言いながら、蔭膳を欠かさなかった。 家族全員が、「兄貴はもう生きていないと半ば諦めていた」ところ、4月25日午後6時半頃、家族で夕食を食べているところに少尉が帰ってきた。 介造が立ち上がって、「伸一、どうしたんや」と、大きな声で呼びかけた。 聞くと、「九州で訓練中、飛行機の車輪が出なくなって、河原に不時着した。飛行機がもじけて(壊れて)しまったので、明野飛行場(現・三重県伊勢市)に新しい飛行機を取りに来たついでに立ち寄った」ということだった。 小松は振り返る。 「その時、父親が『そうか、それじゃあ上がれ。一緒に夕飯を食べよう』と言って、井戸に吊るして冷やしてあったビールを1本持ってきて、『伸一、1杯飲め』と言って、兄貴のコップに1杯ついだ。兄貴はそれを一気に飲み干すと『うまい』と一言言ったのです。その時の兄の表情と一言が今も忘れられません。だから、今も、兄の命日やお盆には、必ずビールを供えることにしています」 その夜、少尉と両親は夜が更けるまで話し込んだが、特攻の話は一切出なかった。 「特攻隊になったからといって、兄の態度は19年の暮れに帰って来たときと変わりはなかった。母は既に死んだとあきらめていた兄が生きて帰って来たからか、やはり、嬉しそうでした」 寝る前、「今回は編隊ではなく、1人だから、知覧に戻る時は何とか家の上空を飛んで行きたい」と両親に約束をして床についた。