日本人の時間の正確性はいつから?明治鉄道史から始まった定時へのこだわり
遅刻批判受けていた明治日本の鉄道、駅職員に時計の所持義務付け
だが、日本の鉄道も、最初から正確なわけではなかった。1900年ころは、ダイヤが守られず、乗り継ぎができない乗客などから、不満の声が上がっていた。当時の鉄道専門誌に掲載された投書によれば、「近年私設鉄道の列車が其の発着時間を誤ることは毎度のことで、時間通りに発着するは稀で、遅着が殆ど通常になって居り、時間の整斉を以って第一とすべき駅員自らさへも、遅着を普通のことと見做して敢えて怪しまぬ位ひである。或る鉄道にては一年中殆ど定時に発着したことなしと云ひ、或る鉄道の発着時間は遅刻を意味した一種の謎言となり居ると云ひ、且つ其の遅着も五分十分の差にあらずして、三十分より一時間位も遅るること敢えて珍しからずと云ふ」(『鉄道時報』)と言う。 批判を受け、日本鉄道会社も定時運行に真剣に取り組んだ。1900年10月には「懲戒規定」を定め、慣習的に処理されてきた懲戒処分を制度化したのを始め、1901年4月には「運輸課職務用時計払下規定」を定め、駅長・駅長助役、車掌、運転手だけでなく、運輸事務所の書記・書記補、通信役、車掌巡視役、改札方、ヤードメン・同取締にまで、時計の所持を義務付けた(中村尚史著『近代日本における鉄道と時間意識』)。 一方、運転の現場でも、工夫が行われた。明治40年代に国鉄の長野機関庫で主任を務めていた結城弘毅は、機関手たちと協力し、沿線の風物から目印となるものを選び出し、通過時間を確認する目印とした。石炭のくべ方、炊き方、蒸気の上げ方も調整し、正確運転のマニュアルをつくったのである(青木槐三著『鉄道を育てたひとびと』参照)。 この運転手法は、全国の運転士の手本になり、結城は「運転の神様」と呼ばれた。そして、昭和に入ると、輸送量が大幅に増えて列車の運転間隔が狭まり、電気機関車の導入によって列車の速度調整が容易になって、運転環境も整えられていった(水戸祐子『定刻発車』参照)。 欧米では、運転のマニュアルは運転士個人に任されているのが一般的だが、日本では組織力で、標準マニュアルをつくり上げる。ちなみに国鉄時代(1987年に民営化されてJRに)最後の15年間の平均遅延時間は3分だった。 新幹線では、運転もシステム化されて運行管理システムが開発され、列車の外から運転士を支援する自動列車制御装置も充実した。さらに、1992年に東海道に登場した「のぞみ」の運転表示板には、「今出すべき速度」を表示する装置が、取り付けられた。運転士は駅の発着や通過予定時刻を15秒単位で記した「行路表」を掲げて運転席に着く。その結果、年間での平均遅延時間は約1分に収まるようになった。