「遠のく戦争は買い」暴落株買い占め 去り際は潔く A・カーネギー(下)
牙城をモルガンに売却、実業界を去る
カーネギーは日頃周囲の者に、おれが死んだら墓碑銘にはこう刻んでくれよ、と話していた。それは「おれよりも賢き者を麾下(きか)に集める術を心得たる男、ここに眠る」というものであった。 カーネギーは営業の才は卓抜で、「アメリカが産んだ最強のセールスマン」と評されるが、生産、管理、財務などの分野ではフィリップ、フリック、シュワップなど「カーネギーより賢き者たち」に任せた。 伝記作家の沢田謙はその著『モルガン』の中でカーネギーについて書いている。 「カーネギーは惜しみなく、その利益を分配した。しかし、権力は1分1厘たりとも分けなかった。カーネギーは傲慢で有名になった。絶対専制の君主であった」 カーネギーは慈善王のイメージが先行する。彼の名を冠するカーネギーホールが世界中に浸透していて福徳円満な好々爺のイメージが強い。しかし、現役時代のカーネギーは闘争意識が猛烈で、かつての仲間たちの間では「カーネギーほど容赦なき競争相手はなかった」という。 1901年(明治34年)カーネギーは突然、手塩にかけてきたカーネギー製鋼所をJ.P.モルガンに売り渡し、実業界を去る。相場は仕掛けよりも手じまいが難事で、事業は創業よりも成就が難しいといわれる。それだけにカーネギーの決断は見事であった。移民の糸捲き小僧時代から数えて53年目の決断である。 モルガンはカーネギー製鋼所を拡大して製鋼大合同を実現させ、20世紀を代表する世界企業「USスチール」が誕生する。 渋沢栄一は日本の経済人を引き連れて欧米の産業視察に出掛けるときは必ずカーネギーを訪問した。カーネギーは、成功した実業家は慈善事業に寄付することの重要性を説いた。渋沢訪米団に参加していた1人、大阪の株式仲買人・岩本栄之助が100万円の巨額な寄付を申し出、中之島公会堂ができるのもカーネギーの影響だといわれる。岩本の義挙が伝わると野村徳七や田附政次郎など大阪の大手仲買や相場師が相次いで寄付を申し出、大阪市大経済研究所や京大北野病院等ができていった。 【連載】投資家の美学<市場経済研究所・代表取締役 鍋島高明(なべしま・たかはる)>