『落合博満』から授かった“魔法の言葉”「言いたいヤツにはいわせておけばいいんだ」 落合家で布団を干しているところを撮られた時も…
敵はめっぽう多いが支持者も多い。それが「落合博満」という人である。たまたま素顔を知ることができた筆者は、もし出会っていなければつぶれていたのではと思うことがある。メンタル面で支えになったのは魔法の言葉。最終回は感謝で締めたい。 ◆落合博満さん、歌手としても活躍していた【写真】 ◇ ◇ 反社会勢力に筆者がびびった話(近藤真一さんと大阪駅から―編)を書いたが、いつも義務感に押しつぶされそうで、人に言われたことをいつまでもクヨクヨ気に病むタイプでもあった。1986年オフに出会った落合さんにそこを見抜かれた。 「お前は顔に感情が出すぎなんだ。いいか、何を言われたって気にするな。言いたいヤツにはいわせておけばいいんだ」 そう言って、ロッテ時代の話をしてくれた。「おれなんかどれだけたたかれたか」。なぜか気にかけてもらい、東京の自宅にも何度か泊めてもらった。そんな時に人生訓、野球訓を聞くのが至極の楽しみだった。 「傷口をなめあうのがチームプレーではない。おれはサードとしてしっかり捕球し、とりやすい球を投げるのが仕事。向こうはしっかりとるの仕事だ」「何とかなるだろうとは考えたことはない。このままでは何ともならない、じゃあどうすればいいかと考える」「ボールはどこへ打てば一番飛ぶ。レフト? なぜセンターが120メートルもあるか考えてみろ」 とにかくいろいろな発見があった。ただ、筆者自身も1987年に週刊誌の餌食になった。泊めてもらった翌朝、布団を干しているところを撮られた。夫人の信子さんに「自分の布団は干しといてね」と言われた時だったと思う。記事は、番記者がこき使われているという内容だったと記憶している。 数年前、名古屋のテレビ局で顔なじみのスピードワゴン井戸田潤さんと立ち話をしたあと、浅尾美和さんが「今のだれ?」と言い、井戸田さんが「伝説の落合番」と説明するのが聞こえた。記者として担当したのはわずか2年だったが、いいことばかりではなく、尾ひれがついた話も流布しているんだろうなあと想像した。 週刊誌のネタになった当時、信子さんは妊娠中だった。泊めてもらえば掃除も手伝ったし、インターホンにも出た。この少し前、生まれて間もない筆者のおいが入退院を繰り返していた。頭にたまった水を抜く手術を何度も受け、一生歩けないかもしれないと言われ家族は絶望。母は「出産時の処置が悪かった」と初孫のふびんさ(その後歩けるようになった)を嘆いた。でも、何を書かれても、まあ、それでよかった。 「お前、落合に部長にしてもらったらしいな」とウワサを教えてくれたのは北海道新聞の部長になった大学のクラスメートだった。その時筆者はすでに部長を退いていたが、友好紙の部長が集まる会議でそんな話が出たらしい。何を言われても、まあ、それでよかった。 こんな時はあの言葉を思い出すようにしている。「言いたいヤツには言わせておけ」。誤解されようが、何を言われても言い訳や説明するのをよしとせず、自分を貫いたのが落合流。それを解き明かすのが醍醐味(だいごみ)で、いつも緊張感と喜びがあった。 気がつけば中日スポーツに40年。いろいろな出会いがあり、読者の励ましがありました。長らくご愛読ありがとうございました。=おわり= ▼増田護(ますだ・まもる)1957年生まれ。愛知県出身。中日新聞社に入社後は中日スポーツ記者としてプロ野球は中日、広島を担当。そのほか大相撲、アマチュア野球を担当し、五輪は4大会取材。中日スポーツ報道部長、月刊ドラゴンズ編集長を務めた。
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