『八つ墓村』(77年版)横溝ブームに角川映画、時代の渦中で何が起きたのか?【そのとき映画は誕生した Vol.3 前編】
『八つ墓村』が映し出した風景
松竹製作の1977年版『八つ墓村』は、ミステリー映画と呼ぶのが憚られるほど、謎解きよりも400年前の怨念話へと傾斜してしまう歪な映画である。原作の昭和20年代という時代設定を、現代に変更させたことも含め、原作ファンや、ミステリーファンから評判が悪いのもうなずける。映画としても、同時期に市川崑監督による、金田一を石坂浩二が演じたシリーズの質の高さに較べると、見劣りするのは明らかだろう。 と、言いつつも、数々の欠点を承知した上で、筆者などは名画座で上映されると、つい観に行ってしまう。また、VHS、LD、DVD、Blu-rayとメディアが変わるたびに買い替えては、年に一度は観てしまう。その理由は、異様な迫力で迫ってくる山崎努の村人大量虐殺シーンを筆頭に、たっぷり時間をかけて撮られた場面の数々と、日本全国で行われたロケーションによって丁寧に映し出された風景が、繰り返しの再見に耐えるからでもある。 原作では、ラジオの「尋ね人」で自分を探す者がいることを職場の上司から教えられ、神戸から岡山と鳥取の県境に位置する山村の八つ墓村へ帰ることになる辰弥だが、1977年版の映画では東京の羽田空港の国際線発着誘導員として働く現代的な青年に設定されている。新聞の「尋ね人」欄に自分の名があることを職場の上司に教えられた辰弥(萩原健一)は、新幹線で新大阪駅に降り立ち、北浜にある弁護士事務所へ向かう。辰弥は母方の祖父(加藤嘉)と対面するが、直後に祖父は謎の死を遂げる。代理で迎えに来た森美也子(小川真由美)の案内で、辰弥は生まれ故郷である岡山県の八つ墓村へ向かうことになる。新幹線の岡山駅から伯備線に乗り換え、中国山系の山々を横目に列車はひた走り、備中神代駅で降車。そこからは車で植林が鬱蒼と繁るいくつもの山々を越えて進んでいく。やがて峠から目にすることになる眼下の八つ墓村は、原作に書かれた「八つ墓村――それはまるで摺鉢の底のような地点にあった」というイメージ通りの村がシネマスコープの画面いっぱいに映し出される。 この旅路が丁寧に描かれることで、観客は主人公と共に遠路はるばる八つ墓村へ向かっているような感覚に陥る。名キャメラマン川又昂は、どこにでもあるような田舎の風景を際立たせ、飽きさせない。 映画の後半で、金田一が近畿圏の各地で実地調査を行う場面も忘れがたい。芥川也寸志作曲の『八つ墓村の系譜を追って』が流れるなか、早朝の和歌山県海南市極楽寺に始まり、大阪の天王寺駅で乗り換えた金田一は滋賀に向かい、石光山の石山寺へ。夕方に京都の東本願寺にたどり着き、翌日は早朝から丹波篠山へ。神姫バスに揺られて田園を走り、兵庫県氷上郡氷上町にある達身寺へ向かう。台詞もないこの5分近いシークエンスがかきたてる旅情感は、数ある横溝映画の中でも本作にしか存在しないものだ。 本作と同じ年に公開された市川崑監督の傑作『悪魔の手毬唄』を例にとると、金田一は、いきなり岡山県の鬼首村に現れ(撮影は山梨県)、それも自転車で疾走して登場するのだから、旅情感など欠片もない。それに市川作品を特徴づける編集は、短いインサートカットが多用されるだけに、風景をじっくり見せることはない。ロングショットで山道を登る金田一が映し出されても、直ちに全く別の空間で撮影された短いショットが挿入されることで市川作品独自の躍動を生み出すのだ。 映画評論家の山根貞男は『悪魔の手毬唄』の公開当時、「ショットは寸断され、距離感覚はバラバラになって、距離のもつ有機性は奪われてしまう。距離は無機質になり、そうした距離でもって描かれる人物像も無機質なものとなる。これこそが市川崑の方法なのだ」(『日本映画時評集成1976ー1989』)と批判した。 その意見に同調するかは別としても、同じ年に作られた同じ原作者による金田一もの2本は、似通うどころか風景をどう切り取るかという視点だけを取っても、こうまで違いが際立っていることがわかる。逆に言えば、市川崑の金田一シリーズと遠く離れているがゆえに、筆者は松竹版『八つ墓村』に惹かれるのかもしれない。