「失敗した!」と思っても引き返せない…「元NPBの名審判」が語る“古田・岡田元監督退場劇”の裏側
通算2902試合をジャッジし、NPB初代審判長なども務めた元プロ野球審判員の井野 修氏が現役時代のことを赤裸々に語った最新書籍『プロ野球は、審判が9割 マスク越しに見た伝説の攻防』(幻冬舎)が発売中だ。 【衝撃写真】「そ、そんなとこダメッ!」中田翔がミニスカ美女と…… 今回はそんな話題の一冊の内容を一部抜粋、再編集してお届けする(表現や表記は書籍に準拠しています)。 ◆横浜スタジアム「審判員集団暴行」事件 ’06年にWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)が始まり、いわゆる「侍ジャパン」が結成されました(呼称は’13年から)。以降、自主トレなど選手間の交流が盛んになり、さらに死球による乱闘事件も減り、それに伴う退場処分もかなり減少しました。 退場処分の「理由」は、以下の7つに大別されます。 ・審判員への暴行 ・審判員への暴言 ・審判員への侮辱行為 ・選手、コーチ間のトラブル ・危険球 ・観客とのトラブル ・遅延行為 思えば’82年8月31日横浜大洋―阪神戦(横浜スタジアム)。藤田平選手(阪神)が打った三塁線上への飛球落球がファウルと判定されました。(注/フェアと判断した)島野育夫、柴田猛両コーチ(阪神)が激昂。 三塁塁審と球審に対して殴る蹴るの暴行事件を起こしました(セントラル野球連盟から「無期限出場停止」処分)。 スポーツにおいて公平な立場の審判員に対してはもちろん、人への暴行は、言語道断の蛮行です。夏休み最終日の事件でした。 ◆2000試合出場記念の古田兼任監督を容赦なく 私は’07年4月19日のヤクルト―横浜戦(神宮球場)で、古田敦也プレーイングマネージャーを退場させました。 横浜11対0のリードで迎えた7回表二死一塁、石川雄洋選手が二塁盗塁をしたのです。これだけの大差の場合、「暗黙の了解」「不文律」で普通、盗塁はしないものと考えられていました。 アメリカではUnwritten Rule(アンリトンルール=書かれざるルール)として「大差がついたら盗塁をしてはいけない」など確固たるものがあります。メジャーではこれに反すると故意死球などの報復を受けても仕方がないとされます。ただ、日本では確固たるものがありません。 次の球、遠藤政隆投手(中日→ヤクルト)のストレート(135キロ)が3番・内川聖一選手の背中に当たる死球となりました。続く4番・村田修一選手に投じられたカーブ(114キロ)はスッポ抜けて落下してきて、前かがみになってよけようとした村田選手の頭に当たったのです。 ◆メモリアル試合が「2000試合の中でワーストの試合」に! 中心打者に2者連続死球。グラウンドには両軍選手が飛び出し、騒然となりました。アグリーメント(同意事項)において、「スッポ抜けは頭に当たっても退場にはしない」という取り決めがありました。 思えば’94年5月、西村龍次投手(ヤクルト)が村田真一選手(巨人)の頭部に当てたことに端を発して死球合戦が勃発したことから、「頭部死球は一発退場」となりました。しかし’94年6月、佐々岡真司投手(広島)のスッポ抜けたカーブがヘンリー・コトー選手(巨人)の頭部に当たって退場。さすがにそれはないだろうということになったのです。 しかし、その状況判断は審判員にあります。スッポ抜けではありましたが、騒動の原因となったのは2者連続の与死球であり、球審は遠藤投手を「危険球」の理由で退場させました。今度は、この措置に古田捕手兼任監督(ヤクルト)が説明を求めてきたのです。 「なんで退場やねん。スッポ抜けやないけ。スピードガンを見てみい!」 「それは審判員の判断です。遠藤は退場です。もう少し冷静になって話しましょうよ」 「××××」 関西弁は時に厳しい印象も受けますが、古田プレーイングマネージャーに限らず、抗議がエキサイトして、思わず言葉が厳しくなるのは誰にでもあることです。その試合、三塁塁審であり、審判員クルーの「責任審判」であった私は、「審判員への暴言」を理由として、退場処分としました。 試合が成立した5回裏終了時、古田プレーイングマネージャーは花束を贈呈されていました。「大卒→社会人」経由の選手では史上初の通算2000試合出場という偉業達成の試合。 4月の屋外球場、まだ寒い中で一方的な内容。なんともあと味のよくない試合となってしまいました。あとで思えば、1度目の死球後、「次の死球で退場となる警告」を出しておけばよかったかもしれません。 当時、古田プレーイングマネージャーの出場試合は激減していました(’06年36試合、’07年10試合)。記念すべき試合だけに、実績ある石井一久投手の先発の日に合わせて捕手として出場したのだと思います。しかし、その日の石井投手はこともあろうに大乱調で、初回満塁本塁打を含む1回6安打4四死球8失点で降板。 石川選手にしても高卒プロ3年目で、1軍定着のアピールに必死だったのでしょう。代走に出て、この盗塁がプロ初盗塁でした。しかも翌日の練習中に打球を顔面に当て、唇を20針縫う大ケガを負い長期離脱。この年は1盗塁に終わっていたのです。 ちなみに翌’08年、「大差の試合での盗塁は記録として認めない」という旨のルール改正が行われました(公認野球規則9・07g【走者が盗塁を企てた場合、これに対して守備側チームがなんらの守備行為を示さず、無関心であるときは、その走者には盗塁を記録しないで、野手選択による進塁と記録する】)。 その後、古田プレーイングマネージャーに会ったときに伝えました。 「古田監督、通算2000試合出場だったのに、悪かったね」 「いいっすよ」 まだ少し怒っていました(苦笑)。 「2000試合も出ていますが、その中でワーストの試合になってしまいました」 古田プレーイングマネージャーは、苦笑しながらどこかのメディアにそんなコメントを出していました。 ◆「阪神の岡田元監督」を退場させた訳 私は岡田彰布元監督(阪神)も退場させています。’07年8月16日、阪神― 中日戦(京セラドーム)。阪神1対3で迎えた8回裏無死満塁の攻撃でした。 1番・鳥谷敬選手(阪神)のゴロを荒木雅博二塁手(中日)が処理して、井端弘和遊撃手(中日)が入った二塁に送球。私は「ヒズアウト!(He is out!)」のコールの瞬間、「ああ、失敗した……」と後悔しました。正直に言ってしまえば、明らかなミスの自覚があったのです。 9番投手の代打で四球出塁した藤原通選手(阪神)の足が思いのほか速かったのは、私の危機管理不足でした。とはいえ、いったんコールした以上、「判定を変更します」とは言えません。 ものすごい勢いでダグアウトを飛び出してきた岡田監督が、二塁塁審の私の体を突いたので、私は退場を宣告しました。これはアウト、セーフの真偽の問題ではなく、「審判員への暴行」を理由とした退場です。 このあとの落合博満監督(中日)は極めて冷静でした。ダグアウトからゆっくりと出て来て、髙橋聡文投手(中日)に「落ち着けよ」。それだけ言って戻って行きました。試合は問題のプレーのとき1点が入り2対3、そのまま阪神は敗れました。 この試合の一塁塁審は╳╳審判員でした。私がミスを犯した試合のことで不謹慎ではありますが、鮮明に記憶に残っているのは、こんなエピソードがあるからです。その試合、一塁でいろいろなクロスプレーがあって、╳╳審判員も阪神応援団にけっこうヤジられていました。 「お~い╳╳、今のはセーフやろ!」 いちいち反応していたらキリがないので╳╳審判員は聞こえないふりを装っていました。 「╳╳、チャック、社会の窓があいてるぞ!」 ╳╳審判員は思わず下を向いて確認してしまったのです。 「さっきから知らんぷりしやがって。しっかり聞こえてるじゃねえか!」 その試合の2か月前、’07年6月8日の阪神―オリックス戦(甲子園=セ・パ交流戦)の岡田監督の「審判員への暴行」退場は、現役時代も通じて初めてでした。この「日本人監督の同一シーズンに複数回の退場処分」は、セ・リーグ初の出来事でした。 当時は「竜虎の時代」と呼ばれ、’03年から阪神と中日が交互に覇権を握っていました。それだけ緊迫した試合が続いていたということなのでしょう(’07年は巨人が優勝)。 さかのぼること、’05年9月7日の中日―阪神戦(ナゴヤドーム)、阪神3対1で迎えた9回裏の守り、本塁クロスプレーの微妙なタイミング。抗議した岡田監督を止めるために間に入った平田勝男ヘッドコーチ(阪神)が「審判員への暴行」を理由に退場処分になり、岡田監督は選手をダグアウトに引き揚げさせました。 18分の中断後、試合再開。阪神は同点に追いつかれ、一死満塁。そこで岡田監督が久保田智之投手(阪神)に叱咤激励した言葉は、’05年阪神優勝のターニングポイントとして有名です。 「メチャクチャやったれ! 負けてもオレが(責任)取ったる」 久保田投手は連続奪三振。延長11回表に中村豊選手が勝ち越し本塁打。試合後の落合監督は「監督で負けた。以上」と語りました。 阪神はここから一気に6連勝し、87勝54敗5分(勝率・617)、2位・中日に10ゲーム差をつけ、2年ぶりの優勝を果たしたのです。それにしても「静の落合、動の岡田」と、セ・リーグを代表する対照的な2人の監督でした。 取材・文:井野 修
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