端島炭坑ガス爆発事故 殉職者1人、鉱員500人が島を去る 翌年復活した『黒ダイヤ』に島民は
長崎市の端島炭鉱では、1964年8月坑内で自然発火による火災が発生し、この事故を機におよそ500人の鉱員が島を去りました。NBCのライブラリーには事故の1年後に再開された採炭に沸く鉱員たちの様子が記録されています。 【画像付きで読む】殉職者1人…端島ガス爆発、その時現場は 1965年(昭和40年)9月、「端島炭坑」で待ちに待った石炭が再び掘り出されました。 前年に起きた坑内のガス爆発事故が起きて以来、端島炭坑では新たな採炭場所を開発するまでの半年間に渡って出炭が途絶えていたのです。 この日はその新坑で採掘された初めての石炭が「初出炭」と書かれた幕とともに地上に上げられ、坑口に詰めかけた作業員らから一斉にバンザイの声があがりました。 「三ツ瀬」と呼ばれたその新坑は海底から350メートル下の地中にあり、 石炭の埋蔵量は700万トンと推定されました。 久しぶりの「黒ダイヤ」産出に島はお祝いムードに包まれました。 ■一年前のガス爆発事故 1964年のガス爆発事故について、「端島(軍艦島)」(高島町教育委員会発行)には以下のように記録されています。 【8月17日自然発火】 【午前2時半頃、9片12尺沿層坑道7~8目貫で自然発火発見】 【午前11時40分突然ガスが燃焼し、殉職者1名】 この時の様子を、工作課に勤務していた加地英夫さんは以下のように書き残しています。 【直接消火は困難と見通されたので、8月18日2番方より土のうによる第一次密閉作業を開始】 【3カ所とも仮密閉を完了したので、引き続いて第2次コンクリートブロック密閉準備作業中に、9片8目貫側の密閉箇所より白煙が生じ、さらに、7、8目貫仮密閉箇所の粘土による気密強化作業中の午後8時頃、同密閉を破るガス燃焼が発生し、21名が負傷しました】 【さらなる誘発の恐れもあったので、救護隊員および一部要員のみを残し、入坑者全員が退避し、午前1時までに全員昇坑しました】 【会社は変災箇所の消化方法などについて検討を重ねましたが、不測の大事故を招きかねないと判断し、最後の手段として深部区域の水没が決定されました】(「私の軍艦島記」加地英夫)
結果、深部区域を水没放棄。その結果、余剰人員500名余の配置転換が提案されました。1,056人の従業員は524人に減員。 事故翌年の1965年(昭和40年)1月1日は、出炭のないひっそりとした新年を迎えた、と記録されています。端島炭坑は事故から10年後の1974年1月15日に閉山しました。
長崎放送