元TBS・海保知里アナ TBS最終面接で役員がざわつく なぜか「『すいません』と謝ったりしちゃって……笑」
海保知里さんインタビュー第2回
TBS系「サンデージャポン」「はなまるマーケット」などで活躍した元アナウンサーの海保知里さん(48)。英検1級、TOEICスコア980点を持つ才媛でもある。なぜ、テレビ局のアナウンサーを目指したのか。アメリカで過ごした小学校時代から、TBS入社までを振り返ってもらった。(インタビュー第2回・全4回) 【レア写真】ノースリーブ姿で初々しい海保さん、TBSアナウンス部で…ウェディングドレス姿、NY時代、子どもとの近影も
父親の仕事の関係で、1~3歳を米テキサス、6~11歳を米サンフランシスコで過ごしたという海保さん。日本とアメリカを行き来する生活では、言語に苦労した。 「最初、英語が分からず、授業に全くついていけなくて……。学年が上がるにつれ、単語も難しくなり、会話が理解できない。と同時に日本の小学校の勉強も必要で土曜は日本人補習校に行ったりして、小学校時代はずっと宿題に追われ勉強していました。それで、やっと英語が理解できて成績も上がってきてと喜んでいたら、日本に帰国することになってしまって……。おそらくそこから私の反抗期が始まりました」 反抗期中は、親の言うことがすべて嫌になってしまった。厳しくしつけられた影響で、フラストレーションが溜まってしまったという。「私は親の敷いたレールを走りたくない」と、中高時代は強く思っていたという。 「『大学にも行きたくない』って言っていました。『もう働く』と。浪人しましたが、受験する気も起きなくて……。親とすごく揉めました。今となると本当に私の考えが浅はかだったと思います。でも通い出した予備校の小論文の授業が楽しくて、そのクラスでは授業後にみんなでディベートをするのですが、そこから少し自分の考え方が変わって、『もうちょっと勉強したい』と思うようになったんです」
一浪を経て無事、大学へ
一浪を経て、無事、大学に入学。将来は「リポーターになりたい」「ラジオで働きたい」と思うようになった。反抗期に、深夜ラジオに支えられたからだ。 「親に勉強すると言って、ずっとラジオを聞いていました。福山雅治さんのオールナイトニッポンとか好きでした。そうした中で、いろんな人に話を聞けるリポーターって楽しいかもって、思うようになったんです」 大学では放送研究会に所属。ラジオ番組の制作 をする中、街頭インタビューをして、編集をして、放送することの楽しさを知った。途中、アメリカの大学への編入を考え、英検1級を取ったりもしたが、編入計画は途中で頓挫。サークル活動に没頭する中、就職活動に入った。ラジオのリポーターを視野に入れ、アナウンススクールに通い始めたという。 「最初、アナウンサーはただ原稿を読むだけと思っていたんです。でも、スクールに通って、よく調べたら、仕事の内容が思っていたのと全然違っていました。『COUNT DOWN TV』のナレーションも、アナウンサーがやっていることがわかって、こんなこともできるんだと驚きました。当時、TBSテレビ『おはようクジラ』では小林豊さんと小島慶子さんがすごく生き生きとリポートをされていた。ラジオもテレビも両方できるのはTBS(民放以外だとNHK)だったので、第1志望にしました」 テレビ局を中心に始めた就職活動。サークルでは最終的に代表を務め、英語の資格もあったため、書類審査はどこも通過したが、面接試験で次々に落とされた。唯一、最終面接までいったのがTBSだった。 「私が最後の役員面接に行ったら、『どうしたの、大丈夫か』みたいな感じで、役員の方が少しざわついていたんです。どうやら、田舎っぽい子がきたことにびっくりしたみたいでした。私も『どうして最後まで残っているのかよくわかっておらず、すいません』と謝ったりしちゃって……笑」 最終面接まで残った女性は4人。同期となる豊田綾乃アナは「アイドルのような雰囲気」だったという。あとの2人も、背が高くモデル事務所に所属していそうな華やかさがあった。そんな中、海保さんは持ち前の明るいキャラクターから、終始、笑いの絶えない面接となり、内定を勝ち取った。