小牧・長久手の戦いでの真の勝者は家康と秀吉、どっち?死闘が繰り広げられた岩崎城に犬山城。古戦場を本郷和人先生と歩いてわかったこと
まもなく関ヶ原の戦いを迎えるNHK大河ドラマ『どうする家康』(総合、日曜午後8時ほか)。一方「婦人公論.jp」ではドラマの解説記事を、東京大学史料編纂所・本郷和人先生に連載いただいてまいりました。クライマックスを迎えるにあたり、思い立った我々編集部は読売旅行さんと相談、先生のご解説を交えて家康の岐路となった古戦場を巡るツアーを開催しました! 巡ったのは桶狭間、長篠・設楽原、小牧・長久手、そして関ヶ原の4カ所。日本史や家康、ドラマや先生のファンにとって、たまらない旅となりましたが、今回記事を通じてそのコースをたどり、現場ならではのロマンと知的興奮を読者の皆さんにおすそ分けいたします。その3は「小牧・長久手」について。 【写真】晴天の中の国宝・犬山城。美しい * * * * * * * ◆バスは小牧・長久手へ 本郷和人先生と徳川家康の人生の岐路となった古戦場を巡るツアーの二日目。今日は小牧・長久手の戦いにまつわる場所を辿ったあと、ツアーのクライマックス”関ヶ原”へと向かいます。 小牧・長久手の戦いといえば、あの豊臣秀吉(合戦当時は羽柴秀吉)と家康が激突したという合戦。戦いの勝敗としては家康に軍配があがったと聞きますが、実際にはどうだったのでしょうか? なお今日は午前中だけで二つの城をまわるということで、合戦の背景に加え、日本の城郭研究にまつわるお話なども先生からうかがいながら、バスは岩崎城址公園へと向かいます。
◆小牧・長久手の戦いとは 先生の解説に基づいてあらためて史実を確認すれば、合戦は天正12年(1584年)3月から11月にかけて秀吉と織田信雄・家康の間で行われ、特に尾張北部の小牧山城・犬山城・楽田城を中心に激しい戦いがあったとされます。 時系列を追うと、まず3月に織田家臣だった池田恒興が秀吉軍として参戦、犬山城を占拠します。家康はこれに対抗するため、犬山城にほど近い小牧山城へ向かいました。 局地戦を経て家康は小牧山城を占拠しますが、その後には秀吉が犬山城へ入り、膠着状態に。 状況を打開するべく、池田恒興、森長可、堀秀政、羽柴秀次ら2万の秀吉方が三河に向けて進軍(いわゆる「中入」)を始め、徳川方の丹羽氏重が守る岩崎城を攻め落とします。 しかし、岩崎城の攻防で疲弊した秀吉方はここで進軍を止め、討ち取った者達の首実検を始めた。そのために、徳川方に池田・森ら有力武将が討ち取られることになり、結果として秀吉方が敗北した…などとされます。
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