引退直前・レスラー齋藤彰俊が語る“虎ハンター”小林邦明「 レスラーはナメられたらおしまいと教わった」
プロレスと格闘技が地続きにあった時代、格闘3兄妹を結成した齋藤彰俊(59)は妥協なき突貫ファイトによってインディーマットで存在感を示すようになる。そして新日本プロレスに上がると、そこでは大ヒールとして小林邦明らと一線を超えた試合を連発。引退を直前に控えた本人の生々しい証言をもとに、数奇なレスラー半生に迫る!(前・中・後編の中編)>>前編は下の関連記事からご覧ください。 【写真】現役生活にピリオドを打つ齋藤彰俊 【3・新日本マット参戦】 齋藤彰俊のキャリアを振り返ったとき、絶対に外せないのが“虎ハンター”小林邦昭との異種格闘技戦だ。特に1992年に行われた一線を超えた喧嘩マッチは語り草になっている。両者の遺恨は些細なことから始まった。小林と誠心会館・青柳政司館長が後楽園ホールの控室で試合に備えていたところ、誠心会館の若手がきちんとドアを閉めなかったとして小林が激怒。13針を縫う大ケガを門下生に負わせてしまう。 「やられたのは自分の同級生だったんですけど、どうしても収まりがつかないと怒りの電話がかかってきました。だけど彼はまっとうな会社員だったので、表立って行動できないというんですね。“じゃあ、代わりに俺がやってやるよ”ということになりまして。こっちもメンツがあるから、あとには引けなかった。小林さんのことをブッ潰す気でいました。その感情が伝わったのか、空手の仲間たちも観客も大会当日は極限までヒートアップしていましたね」 新日本プロレスの大田区体育館大会で行われた試合は凄惨な流血戦となり、最後はレフェリーストップによって齋藤の勝利。この歴史的なファイトで、齋藤はプロレスファンに強烈なインパクトを残した。 「ロックアップから始まるような通常のプロレスの試合とまったく違いました。こっちは完全に感情剥き出しだったし、小林さんも“なにくそ!”って感じで向かってきた。今思えば、あの試合は小林さんが自分に合わせてくれたところも大きかったと思うんです。あれが典型的な純プロレスの選手だったら、対応できなかったはずですから。そういう意味では度量がデカかったですね。それに小林さんってタイガーマスクと試合をする“ジュニア選手”というイメージがあったんですけど、実際はすごくゴツいんですよ。どれだけ蹴っても立ち上がってくるので、プロレスラーとしてのタフさにも舌を巻きました。さすがに“キング・オブ・スポーツ”を掲げているのはダテじゃないなって」 両者の抗争はエスカレートしていったが、闘っているうちに相手を認める感情が生まれてきた。こうした流れの中で誠心会館の自主興行に漢気を感じた小林と越中詩郎が参戦するのだが、これが新日本プロレスで問題視される。というのも当時は越中が選手会会長で、小林が副会長。「勝手な真似をするな」ということで新日本内部での立場が悪化していったのだ。これが“反選手会同盟”として共闘することになった経緯である。 「小林さんの自宅に遊びに行かせていただいたこともありますし、後楽園ホールまで車で送ってもらったこともあります。いろんなプロレスの話をしてくれましたね。“レスラーというのはナメられたら最後。弱いと話にならないし、メシをたくさん食って身体をデカくしたほうがいいんだ”とか。自分はずっと空手着のままプロレスのリングに上がっていたんですけど、途中から長いパンタロンに変えたんです。“僕もやっていいですか?”ってご本人にも許可をいただきましたし」 【4・プロレス引退の真相】 プロレスラーとして充実した日々を送っていたものの、98年に入ると齋藤は電撃的に引退を発表する。多くのファンが「なぜ?」と訝しがった。一体、どんな心境の変化があったのか? 「たしかに新日本プロレスは給料の面もしっかりしていたし、安定していました。でも、その安定が違うかなと思ったんですよね。やっぱり自分がテレビで憧れていたプロレスラーというのは一般社会のものさしでは測れない存在だったし、サラリーマン的な価値観で行動しないんですよ。実際、小林さんと最初に闘ったときは“ここで爪痕を残せなかったら終わる”という不退転の覚悟で向かっていましたし。そのハングリー精神がいつの間にかなくなっていくのが自分で耐えられなかった」 なお、当時の齋藤には幼稚園に通う子供がいた。そもそも妻とは齋藤が公務員だった時代に結婚しているし、妻の父も齋藤が公務員だったため結婚を認めてくれた面がある。公務員を辞めてプロレスラーを志したときもそうだが、齋藤は安定した立場を自ら破壊する衝動性の持ち主のようだ。