『光る君へ』清少納言は明るくて紫式部はマイナス思考? 平安の文豪たちの意外なエピソード
「清少納言や紫式部に代表される女流作家の時代は、平安の文学の中でも最も華やかなものだった。遣唐使を止め、日本はそれまでどんどん取り入れていた中国文化を上手く消化して、国風文化の日本らしいものへと変えていきました。それは文学においても同様で、仮名文字が発達したことで日本人独自の感情を表現しやすくなり、物語や随筆が書かれるようになり、そんな中、彼女達が登場したのです」 【画像】「不倫の恋、そして相手が亡くなると弟と……恋多すぎる女・泉式部 ‘24年のNHK大河ドラマは紫式部をモチーフにした『光る君へ』だが、そんな平安の女流作家について、歴史研究家・歴史作家の河合敦氏はこう語る。 河合氏の著作である『平安の文豪』(ポプラ新書)では、清少納言や紫式部といった宮中で后に仕えた「女房」や歌人のみならず、約400年間にわたる平安時代の為政者や僧侶など、氏の考えた「文学」と規定できるような作品を残した「文豪」達を紹介している。彼らの作品は、和歌集、日記、物語、百科事典、紀行文など様々だ。河合氏にそんな「文豪」たちの素顔について聞いた。 「当時、読み書きするのは貴族や僧侶などの知識レベルの高い人達だけに限られていました。彼らは小さい頃から漢籍に親しみ、それが教養とされていました。平安初期までは基本的に文章は漢文で書かれ、当時の貴族達は中国人と筆談ができるほどでした」 そんなごく限られた人にしかできなかった「書く」ということは、どういう場面で行われていたのだろうか。 「例えば、『日記』というのは記録をするためだけではなく、色々な朝廷の儀式や行事をきちっと書き留めることで、子孫へ伝えていくというような意味もありました。先例がとにかく重要だった時代だったので、先祖が何をどうしたのかは重要な記録でした。日記は代々伝えられたり、場合によっては売り買いされたりするものでもあったんです。 それに対して『物語』は娯楽でした。ただ、女流文学は摂関政治の中で『女房』という天皇や后、貴族に仕える女性たちが書いたものが多いです。それ以外にも紀行文や百科事典など、さまざまなジャンルのものがありました」 清少納言や紫式部などは宮仕えした女房であり、10世紀末は、藤原道長に代表されるような摂関政治の世で、仮名文字を使った女流文学がその存在を光らせた特別な時代だった。 「外戚という立場を利用した権力構造の中で、天皇の母親である后は力を持っており、重要な存在でした。その后に仕えるのが女房と呼ばれる女性達で、その20人程の集団は一種のサロンを形成していました。 貴族達は自らの政治的な目的のために后へ働きかけるのですが、その取次をするのが女房なのです。どの女房に託すかで、自らの要求を的確に伝えられるかが決まってくるので、その役割は重大でした。その女房にも2つのタイプがあります。例えば道長であれば、娘の彰子の女房に、1つは道長の妻の倫子の親戚を、そしてもう1つはさほど身分は高くないが文学的才能や能力に秀でている者を選びました。紫式部や和泉式部は後者のタイプです」 彼女達の書いた『枕草子』や『源氏物語』については、宮中で人気を博したとのことだが、実際に作品がどのような理由で書かれ、そしてどのように読まれたのだろうか。 「もちろん出版なんてできない時代ですから、おそらく回し読みや写本などリアルタイムで楽しまれたのだと思います。また、『枕草子』について、清少納言が、仕えた后・定子から『紙をもらったから』という理由で書いた……という話があるぐらい紙は貴重だったので、作品を紙に書くこと、そしてそれを読むために写本することからも、書くこと・読むことへのモチベーションが高かったことが分かります。」 しかし、気になるのは物語の内容だ。例えば『源氏物語』では天皇の子である光源氏は、父親である天皇の後妻、つまり義理の母と関係を持ち……という内容。また和泉式部は『和泉式部日記』で、時の皇子に言い寄られて応じ、その皇子が亡くなると、今度はその弟と関係を持ち……といった内容を実名で書いてしまっている。そんな内容は当時の禁忌に触れなかったのだろうか? 「結構、みんな喜んで読んだようですね。『FRIDAY』さんもそうかもしれませんが、スキャンダラスなものはいつの世も関心を集めるもので、当時の人たちも大好きなんです(笑)。 また、この当時の貴族は楽しく遊んでいるだけのようにも思えますが、決してそうではありません。実はドロドロとした権力闘争をしていますし、メインは政治です。日々、儀式や行事がものすごく入っていて、道長などはほとんど休みもない。物語を見ていると、貴族の男達は優雅なものに見えますが、それは女房たちがそういった政治の部分を見ていないからです」 ゴシップが大好きなところなど、当時の人たちもわれわれと感覚があまり変わらないようにも思える。そのような過去の人たちの心情を現在に伝えるうえで、この時代に使われるようになった仮名文字が果たした役割は大きい、と河合氏は言う。 「特に清少納言の『枕草子』からは、当時の人達がどういう思いを持って、どう見ていたのか、ということが、本当によく分かります。『春はあけぼの……』もそうですが、こういうところに美的感覚を働かせていたのか、と。それは、漢詩ではなかなか表現できない。 また、うつくしきもの(かわいいもの)として、『すずめの子が、ねずみの鳴きまねをすると、踊るように近づいてくること』や『親鳥がひよこを連れて歩いている様子』を挙げています。また、ありがたきもの(滅多にないもの)として、『舅に褒められる婚。姑に思われる嫁』とか、はしたなきもの(きまりの悪いもの)として、『他の人を呼んでいるのに、自分のことだと思い込んで出て行ってしまったとき』とか。 このように1000年も前の作品なのに、現代の人間にとっても頷ける内容に驚きます。まさに、今で言う〝あるある〟で、着眼点がすごいです。だからこそ、都の人々を感動させたんだと思いますね。まさに文学でしょう」 しかし、そんな清少納言に対して、もう1人の女流文学者の代表格である紫式部は批判的だったようだ。 「清少納言と紫式部は、同じ一条天皇の后である定子と彰子にそれぞれ仕えましたが、時期が少しズレていれば、女房集団も違います。清少納言は紫式部のことを知らなかった可能性すらあります。それでも紫式部が宮中に入ったとき、おそらく既に去っていた清少納言が『素晴らしい女性だ!』と評判だったので、それにムッとしていたとか」 当時は女性が教養をひけらかすのはよろしくないとされていたという。紫式部は『私は漢字の「一」という字も読めない振りをしたのに……』、清少納言は自分の教養をひけらかしていた、と非難しているそうだ。かなりあからさまな嫉妬ぶりだが、紫式部はそれだけ自分に自信があったのだろう。 「清少納言は優秀で、しかも明るい。仕えた定子は悲劇的な最期を遂げますが、『枕草子』には全く暗い話が出てこない。 翻って、紫式部はマイナス思考で、宮中ではドロドロしたこともあったようです。『会っても、みんな無視する!』とか『手紙を書いても無視される!』と愚痴を書いています。どこかからの帰りに、別の女房と一緒に牛車に乗ったら、その女房から『よくない人と一緒になっちゃった』とボソッと言われた……とか。彼女自身も優秀だったがために嫉妬されたのでしょう。宮仕えして半年で家に帰って引きこもってしまったこともありました」 大河ドラマでは、主演の紫式部役に吉高由里子、清少納言役にファーストサマーウイカが発表されている。物語を面白くするために、2人には接点を持たすのだろう。 そんな女流文学が花開いた時代は約400年間続いた平安時代の中で、ごく一部の短い期間だった。 「体制も摂関政治から院政へと移行していく。その形態が変わると、摂関政治の時代には天皇の母や后の権力をバックにしていた女房の力もなくなります。その後、女房が女流作家の中心として活躍することはありませんでした。ただ、その作品は色褪せることなく、今でも愛されているのです」 学生時代の教科書ぐらいでしか馴染みのなかった平安時代の文学について、この機会に触れてみるのもいいかもしれない。 『平安の文豪』(ポプラ新書)
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