群像新人文学賞・豊永浩平さん 沖縄に生まれ、沖縄を知らなかった。ここから始めないと、この先書けない 「小説家になりたい人が、なった人に聞いてみた。」#20
「沖縄」を自分に紐づける
小説を応募し始めたのは16、17歳の頃。未完成のまま送り付けることもあって、当初は箸にも棒にもかからなかった。その後、琉球大学人文社会学部に入学し、近代文学を研究するようになる。大学2年のときに文藝賞に送った作品が3次通過。大学での学びが役に立ったのだろうか。 「それはあると思います。最初の間口が漱石とか芥川とか大家の人たちだったので、書くものもやたら文豪風で格式ばったものだったのですが、大学の授業で保坂和志さんの『書きあぐねている人のための小説入門』や大江さんの『小説の方法』など創作論に触れ、もっと自由に色々やっていいんだ、と楽しんで書けるようになりました」 翌年に書いたのが受賞作『月ぬ走いや、馬ぬ走い』。沖縄を舞台に現代と過去の14の語りが交差する作品だ。 「僕は先祖が沖縄で百姓をやっていたような、まさに土着の人間。沖縄には戦争を含むさまざまな歴史の出来事があり、それにぶち当たって翻弄された先祖たちがいて、その先に僕がいるわけだけれど、今の自分にとってその実感は薄い。沖縄の抱えてきたものを自分にどう紐づけていいかわからないんです。ここに向き合って、どうにかしないと、この先小説を書き続けられない、と思いました。沖縄はヒップホップやラップなど新しいカルチャーが出てくる一方、普通にまだ戦跡が建っていて、基地もあって。そのまぜこぜが僕の原風景。それを出発点にしないと、この先書くものが曖昧になるんじゃないかと」
戦争を茶化す世代の中で
『月ぬ走いや、馬ぬ走い』では沖縄戦や安保闘争も描かれる。体験していない重い史実を書くのに葛藤やプレッシャーはなかったのだろうか。 「どういうスタンスで書けばいいのか、というのは一番悩みました。この14個の断片の裏側に自分がいて、配置を並べ直したり、キャラを登場させているわけなんで、操作したい思いと操作しちゃいけないという思いがせめぎ合って、そのちょうど中間を目指して書くのが大変でした」 豊永さん自身は戦争についてどう考えているのだろう。 「年に一度は平和学習の機会があって、戦争を経験したおばあの話とか、戦争体験を収集する人の話を聞いてきました。その悲惨さに心を持っていかれましたが、不良っぽい子たちの飽きちゃったり茶化したりする態度にもわかる部分はあって。そのふたつのスタンスが書く間にもせめぎ合っていました。作中に、高校生たちが肝試しにガマ(防空壕)に入り、軍刀を盗んできちゃうシーンがあるのですが、それなんか、モロにそのせめぎあいが出たなって思います」 戦争経験者の思いと、若者の白けた気持ちと、両方の気持ちがわかる豊永さんが、がっつり小説で戦争を書いてみて、今感じていることとは。 「この小説は〈恩賜の軍刀〉という、いわば戦争の象徴が次の時代へと持ち越されていって、最終的にまた悪いことが起こってしまう。ラストは希望の持てる終わらせ方にしようと思って、今でもそのラストでよかったと思っているけれど、実家に帰ると、おばあちゃんがウクライナ戦争や沖縄の米兵の事件のニュースを本当に悲しそうな顔をして見ているんです。だから、現実世界の希望については疑う気持ちがあります」 豊永さんの受賞の言葉に「テクストでの魂込め(マブイグミ)とでも呼ぶべきところが、ぼくの目標です」とありました。沖縄では驚いたときや悩んだときに魂が体から抜け出すと考えられ、それを元に戻す民間療法を「マブイグミ」というそうですが、この受賞の言葉の意味をあらためて聞かせてください。 「この小説を書くときに、ステレオタイプな見方を外したいと思いました。たとえば差別してくるアメリカ人は追い出してやろう、とか、バイクを乗り回したり騒いだりする若い子たちって迷惑だよね、とか。でも『結局こういう奴らだよね』ってぶん投げちゃったら前に進まないと思うんです。わかりやすい枠組みをひとつひとつ分解して、新しい繋ぎ方をして、こういう見方もできるんじゃない?って提示したかった。それをマブイグミと表現しました」