藤原道長のイメージが変わった?「一族の繁栄のため」というよりも… 日記から物語から浮かぶ性格は
紫式部を主人公とした大河ドラマ「光る君へ」。柄本佑さん演じる藤原道長は、これまで歴史で習ってきたイメージとは異なって描かれ、多くの反響を呼んでいます。平安文学を愛する編集者・たらればさんは「史実の道長の政への姿勢は、『自分の一族の繁栄のため』というよりも『皇室と皇威の最大化』と考えると、いろいりとしっくりくる」と話します。(withnews編集部・水野梓) 【画像】初公開の「紫式部図」 平安文学が与え続けるインスピレーション
まひろははばたき、道長は出家へ
withnews編集長・水野梓:ついに大河ドラマ「光る君へ」も残り3回となりました。 最新回「はばたき」は、旅立つまひろ(吉高由里子さん)がまさに自由にはばたく内容でしたが、道長は未練たっぷりのなか出家しましたね…! たらればさん:道長がいそいそと御簾をおろして「行かないでくれ」ってまひろの手を掴んで頼んで、それでも「これで終わりでございます」と言われたシーン、最高でしたよね。最高にみっともなかったし、最高にみっともない演技を完璧にこなした柄本佑さん最高だーーと思って見ていました。 史実によると道長の出家は寛仁三年(西暦1019年)、「胸病に苦しんだため」と言われていますが、とはいえ、この後もわりとパワフルに政治に携わります。 水野:ドラマでも公任や行成とも変わらずやりとりしていて、「あ、政への態度は変わらないんだな」と思いました(笑)。 たらればさん:それもそうなのですが、史実ではこの頃(西暦1019年頃)、彰子さまの元で紫式部の娘(大弐三位)と和泉式部の娘(小式部内侍)と清少納言の娘(小馬命婦)がそろって働いていて、母親の名作原稿と写本を管理しつつ、男性貴族(道長の子や公任の子)と丁々発止のやり取りを華やかに繰り広げていたはずで、ここ数回は「そっちも映して……!」と祈っております。
道長は「皇室への過大な愛」を抱いていた?
水野:とはいえ、「望月の歌」の解釈もそうですが、大河ドラマを通じて道長のイメージはかなり多様になったのではないでしょうか。 ドラマをきっかけにいろんな本を読んだり、たらればさんや研究者のお話を聞いたりするまで、わたしのイメージは「この世は我のもの」ぐらい栄華を極めた人、ぐらいだったので……。 たらればさん:そうですよねえ……。『御堂関白記』や『紫式部日記』、『大鏡』などを素直に読むと、藤原道長という人物は、豪放磊落(らいらく)で感激屋なわりに、「美」に対して陶然と我を忘れるような一面があったと言われています。 そのうえで改めて思うんですが、彼には「皇室」や「皇威」というものに強く敬虔な想いがあったように読めるんです。 大河ドラマ「光る君へ」で見せている「民のため」というような動機は史料からは見いだせませんが、いっぽうで「皇室のためにおれががんばらなきゃ…」という意志は端々で感じます。中関白家や三条帝に対する苛烈で冷徹な態度と政略は、「自分の一族の繁栄のため」というよりも、「皇室と皇威の最大化」と考えるといろいろとしっくりきます。 水野:な、なるほど…! たらればさん:もう少し詳しく話すと、道長のロジックは「道隆や伊周や三条帝といった個々人の想いや願いよりも、皇室や皇威の安定のほうがよほど大切だ」というものだったのかな、と思うわけです。 だからこそ子孫を惜しみなく(おそらくは最大限の栄誉と喜びをともなって)宮廷へ差し出し、自らも昼夜区別なく身を粉にして働き、病や老いに取り憑かれてもなお忠勤を続け、同僚や部下や息子たちにもそうした態度を求めたのではないでしょうか。 なによりそういう素朴な信条と心情があったからこそ、「専横」と言ってもいい道長の皇室戦略に、当時多くの公卿が従ったのではないかなあと。 水野:すごく腑に落ちますね~。体を壊しながらも、最大の権力を得たと慢心しそうでも、政への関わりをやめるということもないですしね。 たらればさん:はい。「皇室への過大な愛」があったからこそ、道長はいろいろと「やりすぎること」があって、それが周囲に受け入れられてしまったのかもしれません。これって、中規模の会社のめちゃくちゃ働く社長にたまに見かけるタイプですよね(笑)。 たとえば、道長は多くの政略を用いて三条帝を退位させ、自らの孫を即位させようとしましたが、「いっそ自分が帝に成り替わろう」と考えたことは一瞬たりともなかったように思います。 水野:そ、それはそうですね! 帝を思いのままに…とは思っていたかもしれませんが、革命を起こして自分が帝(支配者)に! みたいなことは全然思っていなさそうです。なるほど~。