劇場版『It's MyGO!!!!!』「春日影」考察 音楽アニメ史への“逆張り”ライブはなぜ生まれたか
要楽奈の劇場版における立ち位置
このような「春日影」の「逆張り」が、アイドルブーム以降の音楽アニメや〈日常系〉作品の歴史においていかなる意味を持つかは過去に詳細に論じたので、今回は劇場総集編においてこの「『春日影』の呪縛」がどんな機能を果たすか、分析しようと思う。 前編の『春の陽だまり、迷い猫』では、MyGO!!!!!のリードギター・要楽奈にスポットが当てられた。「総集編」と言いながら彼女のためだけに新規カット(というかエピソード)がほぼアニメ1話分にあたる長さで追加されていたのは記憶に新しい。 楽奈の初登場はアニメ版第2話、同エピソードで彼女はライブハウス「RiNG」のカフェエリアのステージに現れ、唐突にエレキギターを弾き始める。飲食店としては明らかに「騒音」であるギタープレイを、しかし超絶テクニックの速弾きで披露するのだった。そして数フレーズ弾き終えたかと思えば「まんぞく。」とだけ漏らして(何も注文せず)退店する。 “RiNGの野良猫”と呼ばれる楽奈はこのように、ギターのこと以外にはまったく興味を示さない。口数も少ないため人並みの感情を持っていない純粋な“ギター狂”であるかのように描かれていた。 しかし『春の陽だまり、迷い猫』において、幼少期の楽奈についてのエピソードが多分に追加され、彼女の内面が詳細に伝わることとなった。実は楽奈にとって自身の拠り所は「おばあちゃんとギターだけ」で、彼女なりに孤独を感じていたことが明かされたのだ。 そして「自分の居場所」として音楽バンドの結成を目指していた彼女が、ようやく自身の納得できるメンバーとして出会ったのがMyGO!!!!!のメンバーであった。 そのMyGO!!!!!メンバーたちのオリジナル楽曲「春日影」がまさに「いま・ここにいる居場所の肯定」を意味するために、楽奈は誰よりも率先してこの曲を演奏し始めたのだった。しかしそれに関わらず演奏後に訪れるのはやはり決別である。誰よりも純粋に「春日影」のメッセージを受け取っていた楽奈の演奏の「成功」が決別を生み出したことで、「『春日影』の呪縛」はさらに強調されただろう。 加えて総集編ならではの描写として指摘しておくべきなのは、楽奈がバンドを志したきっかけに「大ガールズバンド時代」があったということだ。「大ガールズバンド時代」とはシリーズ最初期に生まれたバンド・Poppin'Partyと同時代に活躍したバンドたちの切磋琢磨を指して生まれた用語で、かつての楽奈はこの時代のアーティストたちに憧れていたのだった。 つまり楽奈が「春日影」を奏でることは「大ガールズバンド時代」=『BanG Dream!』シリーズの歴史そのものの肯定を意味する。ところが何度も言うように「春日影」の成功はそれ自体「挫折」である。 したがって「春日影」は「大ガールズバンド時代」の「肯定」を意味すると同時にその「破壊」をも意味しているのであり、これは近年の「ガールズバンドアニメ」ブームが実際に「大ガールズバンド時代」と呼ばれていることを考えると示唆的である。『BanG Dream!』シリーズこそが「大ガールズバンド時代」の創造・肯定・破壊を可能にするからだ。 もともと既存の音楽(アイドル)アニメへの「逆張り」的要素を含んでいた『BanG Dream!』シリーズが、さらにもう一歩先にある自己否定的な「逆張り」へと踏み込んだ結果誕生したのが「春日影」である。 そのうえで、今日公開された『うたう、僕らになれるうた』で描かれるシーンは何を意味するだろうか。 本作のハイライトとなるシーンは「『春日影』の呪縛」に囚われた少女たちが唯一、一瞬だけ「居場所」の肯定に成功する瞬間、「詩超絆」の演奏である。 同シーンでは輪になったメンバーが、お互いに向き合いながら演奏する演出が印象的だ。サビの直前に各メンバーの表情をクローズアップで映した(2:10~)かと思えば、サビが始まった瞬間にカメラは180°急旋回し、かつ高速で後退しロングショットへと切り替わる。 個々人の胸の内に抱えていた感情が、一気に解き放たれたかのようだ。 「成功体験自体が挫折を意味する」絶望の循環から、「つながり」としての円環へ。演奏中に「輪」になって互いを向き合う彼女らは、悲劇の循環から抜け出すべく別の輪=循環を生み出すことで抵抗=ロックを試みているかのようである。 音楽アニメへの「逆張り」としての「春日影」へのさらなる「反抗」としての「詩超絆」を、大スクリーンで見届けたい。
徳田要太