名だたる作家や歌舞伎役者をも虜に…戦後の「伝説的スター」が創り上げたストリップの「黄金期」
1960年代ストリップの世界で頂点に君臨した女性がいた。やさしさと厳しさを兼ねそろえ、どこか不幸さを感じさせながらも昭和の男社会を狂気的に魅了した伝説のストリッパー、“一条さゆり”。しかし栄華を極めたあと、生活保護を受けるに至る。川口生まれの平凡な少女が送った波乱万丈な人生。その背後にはどんな時代の流れがあったのか。 【マンガ】「だから童貞なんだよ」決死の覚悟の告白に女子高生が放った強烈な一言 「一条さゆり」という昭和が生んだ伝説の踊り子の生き様を記録した『踊る菩薩』(小倉孝保著)から、彼女の生涯と昭和の日本社会の“変化”を紐解いていく。 『踊る菩薩』連載第33回 『「負けちゃならんと思ったんです」伝説のストリッパーが頂点に昇り詰めるために使った「特出し」とは』より続く
ストリップの起源
女性が裸を見せるストリップという芸は、聖書や日本の古事記にも見られるほど、その歴史は古い。しかし、舞台で音楽に合わせて客の前で服を脱いでいく現代ストリップの形が生まれたのは、19世紀の英国ミュージックホールだった。 英国では産業革命のため都市労働者が急増し、環境汚染や労災、過重労働など経済発展の負の面が現れてくる。それを改善しようと、労働運動が盛んになったのもこのころだ。そうした都市労働者が集まり、酒を飲みながら娯楽を楽しむ場として生まれたのがミュージックホールだった。 英国は階級社会である。上流の人々は、劇場でクラシック音楽やオペラを鑑賞し、幕間にワインを飲む一方、労働者はミュージックホールでビール・ジョッキを傾け、バンド音楽や女性の踊りを楽しんだ。喜劇王チャーリー・チャップリンの母はミュージックホールの歌手で、チャップリンも幼いころから舞台に上がっていた。労働者を楽しませようと、ミュージックホールで生まれた芸がストリップだった。
ストリップの日本上陸
日本のストリップショーは47年1月、東京・新宿の帝都座5階劇場で上演された「額縁ショー」が最初である。「ヴィナスの誕生」と題した公演で、ブラジャー姿の中村笑子が額縁のなかに登場した。続く公演「ル・パンテオン」で甲斐美春が乳房をさらした。額縁に掛けられたカーテンが開いていたのはたった15秒ほど。それでも会場からざわめきが起きた。 数週間後、渋谷の東横デパート4階の劇場「東京フォリーズ」で、ラナー多坂という女性がブラジャーをとって乳房を見せた。これは額縁外のストリップ第1号で、作家の田中小実昌は自著で自分が幕の後ろから、多坂のブラジャーを外したと明かしている。 「額縁ショー」ではモデルは動かず、警察が目を付けることはなかった。ラナー多坂は動いたため、東京フォリーズの文芸部長が渋谷署から呼びつけられた。田中もこのとき、部長と一緒に渋谷署に行き、「新憲法では、検閲をしてはいけないことになっている」と抗議している。 軍靴の音高らかな戦中の日本では、女性の裸を男性が楽しむなど想像すらできなかった。映画監督の黒澤明は『蝦蟇の油 自伝のようなもの』で、内務省の検閲官によって、外国映画は接吻場面だけでなく、女性のひざが出た場面さえカットされたと明かしている。 〈勤労動員の学生達を、工場の門は胸をひろげて待っている、と書いても猥褻だ、と云うのだから、どうしようもなかった〉 「門」という字から検閲官は「陰門」を想像した、と黒澤は述べている。そんな時代だった。