『逃げ上手の若君』北条氏を裏切った五大院宗繁の末路 時行の前に立ちはだかる一族の仇はどのような人物だったのか?
TVアニメが放送中の『逃げ上手の若君』。主人公・北条時行(声:結川あさき)の前に最初に立ちはだかる仇敵が、五大院宗繁だ。恩があるはずの主家・北条氏を裏切り、時行の兄である邦時を敵に売り渡した。裏切り者に待ち受けていた結末とは、一体どのようなものだったのだろうか? ■わが身可愛さに北条家の子息を敵に売り渡した裏切り者 「平長重去状」と呼ばれる文書がある。弘長元年(1261)年、困窮して御家人としての責務を果たせなくなった武士・江戸長重が自らの所領を北条氏に差し出す替わりに年貢公事の肩代わりを願い出る内容である。 その窓口となった「五代右衛門尉」なる人物は『逃げ上手の若君』で北条時行の最初の敵として登場した五大院宗繁の一族、五大院高繁を指すと考えられている。なおこの文書では五“大”ではなく五“代”となっているが、当時は音が合っていれば字についてはとやかくいわれなかった。幕府滅亡から遡ること72年、この頃すでに五大院氏は得宗家に仕えていた。 江戸氏は鎌倉幕府の草創期からその名が見える名門御家人だが、同じ御家人であるはずの北条氏にではなく、被官である五大院氏に宛てて文書を差し出しているあたりに江戸氏の没落と北条得宗家、並びに得宗被官の地位向上ぶりが伺える。 五大院宗繁の出世すごろくは彼の妹で常葉前と呼ばれた女性が当時の執権・北条高時に見初められたところからスタートした。高時の寵愛を受けた常葉前は正中2年(1325)11月に待望の男子を産む。北条一門の金沢貞顕もこの日のことを伝える書状の中で「天下大慶、家門繫昌嘉瑞候、千万幸甚」と大げさに寿いでいる。 乳母に抱かれて父・高時に対面した若君は幕府の重臣たちから雨のような祝福を受けた。しかし貞顕はめでたいはずのその場に高時の生母で若君の祖母にあたる「大方殿」やその実家である有力御家人・安達氏の面々の姿が見えないことに気づいて不審がっている。安達氏は北条得宗家の外戚として権力を維持してきたため、側室に先を越されて焦りを覚えていたのもしれない。 ちなみに貞顕はこの一年後、出家した高時に代わって執権に就任する。この幼い若君が成長するまでの中継ぎとしての役割を期待された人事だったが、安達氏に睨まれてほんの10日で職を辞してしまう。邦時が執権となる未来も一旦保留にされたわけで、「安達氏の妨害で1回休み」といったところか。 とはいえ高時の正室にはその後も男子は生まれず、周囲からは常葉前が産んだ若君が次期得宗と目されていたようである。彼は父や祖父らの先例に従って5歳になった元徳元年(1329)年に八幡宮に参詣、7歳で元服した。北条邦時の誕生である。宗繁にとってはまさに我が世の春であった。しかし元弘3年(1333)5月に北条得宗家が滅亡したことで宗繁の出世双六はあっさり頓挫してしまう。 主君・高時から「なんとしても生き延びて一族の仇を討ってくれ」と愛息を託された宗繁だったが、残党狩りの厳しさを目の当たりにして心が揺らぎ、これからは新田義貞にとりいろうと考える。手土産は北条の遺児・邦時だ。何も知らない邦時を言葉巧みに鎌倉から出立させると、自分は新田方の武士・船田義昌に邦時の居場所を内通したのである。 この時代、主を替える「返り忠」は珍しくなかった。だが五大院氏にとって北条氏は何代にもわたって仕えてきた主であり、それを裏切るのは当時の感覚でも非道な行為だった。まして我が身可愛さに実の甥でもある幼子を売り飛ばす宗繁のあさましさに船田も軽蔑の念を抱いたが、北条の嫡男を見逃すわけにはいかない。追っ手を差し向けて邦時を捕らえると、そのまま処刑してしまった。 当初のコースとは大幅な路線変更を強いられたが、倒幕軍に取り入れば出世双六もあがり目前。宗繁はそう考えたかもしれないが、新田義貞からは主君の子を売るような男は信用ならないと仕官どころか処刑を言い渡されてしまう。目論見が外れて逃走した宗繁は、かつての旧友からも見放されて人知れず野垂れ死んだという。
遠藤明子