箱根駅伝「慶應卒の怪物ランナー・北本正路」をご存じか…? ロス五輪出場も「太平洋戦争」へ、魔の4000メートル「山越え行軍」で直面した”凄惨すぎる戦場”の現実
1月2日から3日かけて行われる箱根駅伝。過去には「山の神」と呼ばれる怪物ランナーもたびたびメディアで紹介されてきたが、100年以上の歴史のある箱根駅伝では驚異の健脚を誇るランナーが少なくない。その一人が1932年の大会で、逆転劇により慶応大学を優勝に導いた北本正路だ。 【写真】軍事誌発「伝説の航空機本」、そのすごい中身を公開する…! 区間賞を10区で3度も獲得したほか、ロサンゼルス五輪にも出場。さらに、戦時中には過酷なニューギニア戦線の峻険な4000メートル級の山々を越える「魔のサラワケット越え」で名を残すなど、近代日本史にその健脚をとどろかせた人物だ。その北本の事績を収録した「読む年表 太平洋戦争」(筒居譲二著、潮書房光人新社)から、「魔のサラワケット越え」について一部抜粋・再構成してお届けする。開戦から終結まで3年9か月にわたる太平洋戦争をエピソードで振り返る異色の書に記されていたのは、箱根駅伝の怪物ランナーが直面した“凄惨すぎる戦争の現実”だった――。
「ダンピールの悲劇」から「4000m級の山越え」
1943年3月3日の「ダンピールの悲劇」(3500人溺死)で戦力の多くを失い、ニューギニアのラエに到達した中野英光中将指揮の第五一師団は、第四一師団第二三八連隊、ギルワからの撤退部隊、海軍部隊と共にラエ、サラモア地区を守備していた。 6月30日、米軍はサラモア南方のナッソー湾に上陸。第五一師団はサラモアで、この敵と対峙していた。しかし、ラエに対峙する兵員、物資の輸送はダンピール海峡の制空権を米軍が完全に握っているため、ラバウルから駆逐艦で同じニューブリテン島の西端ツルブまで輸送、その後は船舶工兵の大発で夜間隠密裏に行われるか、潜水艦がラバウルからラエまで直接輸送する方法しかなかった。 そのような点滴式の補給でさえも、ツルブへの爆撃、ラエ向けの大発に対しては魚雷艇による妨害等で困難になってきていた。
山越えの補給が可能か偵察、食料10日分のみで突破
しかし9月4日、米軍はついにラエに上陸。翌日には空挺部隊が降下。こうして進退窮まったラエ、サラモア地区の日本軍は玉砕を覚悟したが、安達二十三司令官の命令により、キアリに向け4000メートル級の山々が連なるサラワケット山系を越えることになる。 これを先導したのが、北本正路少尉指揮の工作隊だった。北本少尉は慶応大学陸上部時代、箱根駅伝で母校を優勝に導いた上、1932年のロサンゼルスオリンピック1万メートルにも出場している。 北本少尉はキアリからラエへ山系越えで補給が可能かを偵察するためサラワケット山系を踏破してきた経験を持っていた。 9月12日、第1陣が出発。急峻な山越えであるため将兵が背負った食糧は10日分だった。北本工作隊がキアリに到着したのが10月5日。すぐに救援隊と共にとって返し、転々と落後している将兵を収容した。 しかし、目的地キアリに到着するまでに、8500名中1100名が飢え、寒さ、転落により命を落としている。
潮書房光人新社