「難解すぎる」…『オッペンハイマー』鑑賞後に感じる「奇妙な手触り」の正体…カラーと白黒のシーンに隠された致命的な失敗とは
広島・長崎の「隠蔽」と1人称
この手法と、原爆の問題は深い関係にある。すでに報道されている通り、『オッペンハイマー』は広島と長崎の被害の様子を直接に描くことはない。 これについてノーラン監督は「この作品はあくまでオッペンハイマーの主観に寄り添う1人称的なものであり、彼は広島と長崎への原爆投下をラジオで知っただけであるゆえに、それは描かない」という趣旨の発言をしているのだ。 この映画の大部分(カラーの部分)が1人称的なものであることを認めるとすれば、それはこの映画の道徳的な正当性を下支えしているということになるだろう。 つまり、この映画は、原爆を開発したことへの悔恨の映画であり、その限りにおいて、核兵器のもたらす悲惨を訴える映画である──オッペンハイマーの心理劇としての側面を強調することは、この主張を下支えするのである。 この主張は、私たちの直感に反する帰結をもたらす。つまり、この映画は1人称的になり、それを白黒の場面のストローズの原子力推進と対置することによってこそ、オッペンハイマーの「悔恨」を真に迫ったものとして表現し、核兵器の危険を訴える映画になっている。 オッペンハイマーの主観から踏み出さないこと=広島と長崎を描かないことによってこそ平和主義の映画となるというパラドックスがここに生じるのだ。 だが、この図式は結局のところ、成立していないと考えるべきである。私はここまで、この映画(のカラー部分)が1人称的なものであるという前提で論じてきた。それがノーラン監督のとりあえずの意図だった。 だが、映画は原理的に、例えば小説がそうなれるような意味で1人称になることはできない。もちろん部分的には、例えばカメラを人物の視点に固定するとか、1人称でのナレーションを入れるといった手法で1人称的にすることはできる(が、『オッペンハイマー』はこのどちらも行なってはいない)。 カメラの目が登場人物と世界をとらえた瞬間に、それは1人称的なものをすでに離れていると見るべきなのだ。 実際に、ト書きが1人称で書かれた『オッペンハイマー』の脚本から受ける印象と、できあがった映画から受ける印象は別物である。 先述のように、この映画には脚本の1人称に由来すると思しき奇妙な手触りがある。だがそれは、純然たる1人称とはもはや別物なのだ。だから、本当は、広島と長崎の惨状を映したとしても、ノーランが「1人称的」だと考えるこの映画の特質に傷はつかなかったはずだ。 広島と長崎を描かなかったことには、1人称的にすることとは別の動機があったと疑わざるを得ない。 つまるところ、この映画はオッペンハイマーの主観と、世界で起こったことを切り分けて描いた上で橋渡しすることに失敗している。だがカラーと白黒といった形式だけは主観と客観の両方を描きうると主張しており、それが観客の感性にすっと落ちてくることはない。 それは、本記事で行なってきたように、悟性(理性)で分析しないと了解できないものである。そのギャップこそが、私が「奇妙な手触り」と繰り返しているものの正体だ。この形式と、受容する側の感性が乖離することは、映画『TENET テネット』の時間の逆行シーンでも起きている。 ただし、私たちはみな、多かれ少なかれそのようなギャップの中を生きているのかもしれない。だとすればそれを易々と橋渡ししなかったのは、ノーラン監督のせめてもの「誠実」と言えるのかもしれない。 残る問題は、それが広島と長崎の「抹消」に帰結する──そしてそこには結局美学的な必然性はないかもしれない──という事実を、私たちがどう受けとめるかなのである。 文/河野真太郎