【プレイバック’04】4年ぶり「全島避難」解除の三宅島で島民を待っていた“変わり果てた大地”
10年前、20年前、30年前に『FRIDAY』は何を報じていたのか。当時話題になったトピックをいまふたたび振り返る【プレイバック・フライデー】。今回は20年前の’04年9月17日号掲載の『〝自己責任〟帰島を待つ三宅島「変わり果てた姿」衝撃公開』を紹介する。 【すごい】泥に埋もれかけた車の後部座席で…本誌記者が発見した4年前の〝忘れ物〟 ’00年6月から始まった伊豆諸島・三宅島の火山活動の活発化。最大規模となった8月18日の噴火では、噴煙が成層圏まで達し、29日の噴火では火砕流も発生した。それ以降、噴火はおさまったものの、火山ガスの放出量が世界でも例をみないほどのレベルに達したため、都は全島民の島外への避難を決定した。 その後もガスの噴出が続いたために非難は長期化。’04年7月20日にようやく平野祐康三宅村村長(当時)は、全島避難指示を’05年2月に解除することを宣言したのだった。’04年9月で全島避難から丸4年。生まれ育った故郷へ戻りたいという島民たちの願いがようやく叶うこととなる。だが、本誌記者が島民たちに先駆けて島を訪れてみると、そこにはすっかり変わり果てた光景がひろがっていた──(以下《 》内の記述は過去記事より引用)。 ◆立ち枯れた木々と灰褐色の大地 全島民が火山ガスに咳き込みながら島を離れて4年。あれから島は本当に再生したのだろうか。その現状について、当時の誌面にはこう書かれてある。 《’20年8月下旬の早朝、定期船『かめりあ丸』は島東部の三池港に接岸した。泥流で寸断されていた島を一周する。都道はすっかり修復され、道路端で見かけた作業員は泥流の除去ではなく、生い茂る草木の手入れをしていた。港には大型の魚が群れ、民家周辺にはキジやアカコッコなどの野鳥も姿を見せる。しかし、ひとたび山に足を踏み入れると、そこには三宅島のもうひとつの現実があった。 皮が剥がれ、白く変色した立ち枯れの木々のあいだを抜けると、灰褐色の台地が眼前に現れた。噴火前に確かにそこにあった緑色の雄山の頂はすでになく、かつて蒼々とした牧草におおわれていた牧場には、大地を抉り取った泥流の流れた痕跡だけが残されている。島北西部の沢に設置された砂防ダムには、泥流が上限まで溜まり、その上に折り重なった倒木がかろうじて流出を食い止めているようだ。 島の西側に回ると刺激臭を感じ、咳が止まらなくなる。ふと雄山を見上げると、青白い火山ガスが山間部を下ってくるのが見えた。南東部にある都立三宅高校のグラウンドにはびっしりと草木が生い茂り、4年間という年月を物語っていた。》 火山ガスは7月20日にようやく1日当たり1万トンを割り込んでいたものの、いまだ噴出は続いていた。避難解除を決めた行政は「帰島はあくまで自己責任」としていた。だが、その一方では’05年2月の「避難指示」解除後は、現在島民たちが避難している都営住宅から3ヵ月以内に立ち退くことを求めている。島民の1人は次のように語っていた。 《「行政は、帰島は自己責任というけど、帰島に関するアンケートの問いは、リスク覚悟で帰るか否かの二者択一でした。医療や教育の問題で帰りたくても帰れない島民もいるし、そんなに単純なものではないんです。また、思っていた以上にガスがひどくて島に住めなくなった場合、行政はどの程度ケアしてくれるのか。いま島民が一番欲しいのはそういった不安に対する情報です」》 医療、教育、就業問題など、帰島にあたっての課題は山積している。量は減ってきているものの、ガスが噴出し続ける島で復興が進むのか、先行きは見通せない。島民たちは苦渋の決断を迫られることとなる──。 ◆若い世代は半数以上が島に帰らなかった 待ちに待った避難指示解除だったが、やはり島民たちの思いは複雑だったようだ。記事の島民のコメントにもあるように、4年5ヵ月の間に避難先で生活基盤ができてしまった人や、呼吸疾患があるために火山ガスの出る島へ帰れない島民もいたという。とくに小中学校や高校に通う子供を持つ家族は避難先に残るケースが多かった。’05年8月までに帰島した住民は2500人と避難前の3分の2ほどにとどまった。とくに若い世代は半数以上が戻らなかった。 ’15年6月、気象庁の噴火警戒レベルが1になり、火口付近も含めて立ち入り規制が解除された。現在の島ではすっかり日常が取り戻されている。少子高齢化、過疎化が進んで現在の島の人口は2000人ほどになってしまったが、火山が作り出した独特の景色など、自然に恵まれた環境はエコツーリズムをはじめとした観光先として人気だ。 だが、島全体が火山である三宅島は昔から20~60年周期で噴火している。とくに昭和以降は20年ぐらいの周期となっている。噴火はけっして過去だけの話ではないのだ。
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