走り続ける脚本家・倉本聰82歳 ── 富良野塾の卒塾生に書いた送る言葉
富良野に移住した倉本聰は1984年に私財を投じて俳優と脚本家を養成する「富良野塾」を開き、2010年の閉塾まで26年間、毎年演劇を作り続けてきた。最初の作品は塾生たちの暮らしを描いた「谷は眠っていた」。 この芝居は塾生たちの発表の場として作られた。倉本は親しい人を富良野に呼んで芝居を見せた。私も見に行ったが、見た人は皆そのレベルの高さに驚き感動した。プロの役者が演じる芝居とはまるで違う新鮮さだった。 塾生である役者は、自分たちの暮らしを自分たちで演じるからそのリアリティは半端でない。見終わった皆が、こんな芝居を人も住んでいないような富良野の谷間でやるのはもったいないと言った。噂が広まり各地からツアーの申し込みが殺到、忽ち全国ツアーが決まった。それ以降、毎年ツアーを続けてきたのだが、有名な俳優が一人も出ていない作品でも、見に来てくれた人達は感動してくれた。「見に来てよかった!」と言いながら帰って行く。
なぜ芝居の感動はスポーツの感動に勝てないのか?
こうして続けてきた芝居も今年で幕を閉じる。「芝居は楽しいけど、体力的に難しくなった」と82歳の倉本は言う。倉本は今まで3か月にも及ぶツアーの40近い公演全てに顔を出し、来てくれたお客さんをロビーで見送ってきた。握手やサインを求める人が長蛇の列を作る。その人たち一人一人にお礼を言う。弱音を吐かなかったが、大変だったと思う。 そして、最後の作品として倉本が選んだのが「走る」。1997年に富良野だけでやった芝居で全国公演をやっていない唯一の作品。 この「走る」という芝居のきっかけを作ったのはオリンピックで二度にわたってメダルを取ったマラソンの有森裕子さん。有森さんはニッポン放送の番組のためにアトランタオリンピックの練習時からオリンピックのレースまで毎日電話レポートを寄せ、気持の高揚や落ち込み、悩みなどを赤裸々に語っていた。 「なぜ芝居の感動はスポーツの感動に勝てないのか?」と常々思っていた倉本はこのテープを聞いてその答えが分かった。肉体的、精神的に自分を追い詰めていく有森さんの凄まじさを知り、スポーツ選手と役者の与える感動の違いは稽古で流す汗と涙の量の違いだということに気づいた。倉本は、早速、塾生たちを体力の限界まで追い詰めていく作品を書いた。それが今回の「走る」。 あるマラソン大会に全国から様々な過去や様々な事情を抱えた出場者が集まってくる。 マラソンが始まってからも色んなアクシデントが起こる。挫折してギブアップする者、障害を乗り越える者、何の問題もなく楽に走りぬける者・・様々な人生ドラマが展開される。役者は2時間近くをひたすら走り続ける。 倉本はマラソン大会を舞台にして人の生きざまを描きながら「人は何のために走るのか、何に向かって走るのか」と問いかける。まさにスポーツと演劇が合体してパフォーマンスだ。芝居の中には公演地で募集したサラリマン6~70人ががむしゃらに走るシーンもあり見る人の感動を呼ぶ。戦後、会社のために、家族を養うために、ひたすら走ったお父さんたちの姿が人を打つ。