南海ホークスメモリアルギャラリー 「大阪球場と南海ホークスを後世に語り継ぎたい」想いから描いた20年の軌跡
克則さんも快諾し、多くの協力を得た
プロジェクトの実現において欠かせない人物がもう一人いる。それは、息子の克則さん(現阪神ファームバッテリーコーチ)。江本さんは克則さんにも打診をした。 矢野さんは克則さんらのリアクションについて語った。 「克則さん始めご家族の方が、『私たちは全面的に協力しますので、”野村克也”の名前をぜひとも載せていただきたいです』とおっしゃっていただき、多くのご協力をいただきました」 これまで展示されてきた野村さんのユニフォームや帽子らは克則さんの自宅まで伺い、数ある中から選んでお借りしているものだという。
21年2月14日、ついに難波の地へ帰還
リニューアルに向けた資金はクラウドファンディングで募り、21年2月14日についに難波の地へ野村さんが帰ってきた。メモリアルギャラリーはリニューアルオープンし、記念すべきセレモニーが行われた。 江本さん、そして克也さんの孫の忠克さんが始球式で”バッテリー”を組み、新たな門出を祝った。喜びの声が電鉄本社にも多く寄せられた。 廣田さんは、その反響について語った。 「皆さんから、『本当に待ち侘びていました!』という声が一番大きかったです。当時もコロナ禍で様々な判断が難しい時期ではありましたが、『絶対に行きます!』という熱いお声もいただきました。 ご家族で一緒に来ていただいたりとかして、私のようにリアルタイムで知らない世代が『こんな歴史があったんだ』などと興味深く展示を見ている様子を拝見し、心を動かされました」
南海ホークスがあったことを誇りに
昭和最後の88年に球団としての役目を終えた南海ホークス。しかし、その歴史は脈々と受け継がれ、令和となった今でも南海電鉄にとって重要な役割を担っている。 常に進化を続けるメモリアルギャラリーについてのこれからを矢野さんに訊いた。 「弊社にとっても、やはり球団があったことを誇りに思っていますし、これからも次の世代に根付いていってほしいです。そのためにはこのギャラリーをずっと継続することだと思います。 この難波という大阪の中心に球場があり、敷地の中にはスケート場やボーリング場などがあるなど、まさにエンターテインメントの中心がまさにここやったんだと。 そのアイデンティティがしっかりと繋がっていけば、難波は栄え続けることができますし、そういう地であり続けたいです」 福岡移転後にダイエーを経てソフトバンクとなった今、ホークスは”エンターテインメント企業”と宣言し、たくさんの野球ファンや地域の方たちを魅了している。 そのルーツは、まさに南海ホークスそして大阪球場から醸成されたものだった。歴史やDNAは令和の現代にも脈々と受け継がれている。 (おわり)
取材 / 文:白石怜平
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