南海ホークスメモリアルギャラリー 「大阪球場と南海ホークスを後世に語り継ぎたい」想いから描いた20年の軌跡
ファンと共に創り上げるギャラリーに
共に創り上げているのはOB選手だけではなかった。廣田さんがあるエピソードを明かしてくれた。 「今展示しているもので、優勝時の銀杯があるのですが、実はファンの方に寄贈いただいたものなんです。 優勝の記念品として球団からご親族に贈られたそうで、ご自身で終活とかをされる中で、そのまま処分してしまうのは勿体ないと。 ぜひ多くのファンの方にも見ていだきたいし、ホークスの歴史を伝えていきたいと思うので、ぜひ飾ってもらえませんかということでお声がけをいただきました」 また、他にも球団にゆかりのある方からもお話があったという。 「初代球団社長のお孫さんが当時の記念品を持っていらしてくれました。何度もギャラリーには来ていただいて、『(1958年の)球団創立20周年記念盾や、61年のパリーグ優勝記念木製トレイが出てきたので飾ってもらえませんか?』と寄贈してくれました」 廣田さんは、ギャラリーが発展していく過程について感じたことを語った。 「OBやご家族、関係者の方の協力あってこそ成り立っているギャラリーであることを強く感じますし、何よりファンの皆様とも一緒に作り上げている想いがあります。 球団が譲渡になってから長い年月が経ちますけれども、今でも南海ホークスが愛されてると思えることが、この事業を通じての何よりの喜びです」
江本孟紀さんを中心に”おかえり!ノムさん”プロジェクトがスタート
今も難波の地で輝く歴史を発信している南海ホークスメモリアルギャラリー。実は3年ほど前に、最後かつ最大のピースをはめたとも言える一大プロジェクトが立ち上がった。 20年11月4日、大阪・難波で「おかえり!ノムさん 大阪球場に。」と銘打ち、メモリアルギャラリーのリニューアル計画が発表されたのだ。 不世出の名捕手でもある野村克也さんが球団に残した数々の功績を讃えるために立ち上がったプロジェクト。南海OBで野村さんと長年親交のあった江本孟紀さんが発起人となった。 現役時代は野村さんとバッテリーを組むことで開花し、プロ通算113勝のうち南海での4年間で52勝を挙げた江本さん。記者会見でこう語っていた。 「世間体としては、”名将”・”名監督”という印象が強い方ではあるが、私個人としては”野球選手”としてスーパースターだった。その野村さんが一番輝いた現役時代を送ったのが伝統ある南海ホークスだったと思っています」 野村さんは1954年にテスト生として南海に入団後、2リーグ分立後初の三冠王に輝くなど、本塁打王9度・打点王7度・首位打者1回・ベストナイン19度、MVPは5度受賞するなど華々しい成績を収めた。 しかし77年、野村さんは球団と衝突し退団となってしまう。以降、球団とは疎遠になってしまった。 03年メモリアルギャラリーオープンや07年リニューアルの際に、野村さん側へ展示の相談をしたが許可が下りなかったこともあり、パネルや年表に「野村克也」の名や写真が載ることは一切なかった。 江本さんも、「20年近くこのなんばパークスに”野村克也”の名前がないのはおかしい」などとメディアなどで発信をし続けており、かねてから野村さんに”提案”し続けていたという。 「江本さんは野村さんがまだ健在だった19年まで、野球解説や本の共著などでよくご一緒されていました。会うたびと言っていいほど、『大阪球場にぼちぼち帰ってきぃや』という話を何度もしていたそうなんです。そしたら、野村さんも『せやな、わしも帰りたいなぁ』と言っていたそうなんです」(矢野さん談) しかし、野村さんはその想いを果たせぬまま20年2月に急逝。江本さんは野村さんの遺志を継ごうと立ち上がったのだ。 プロジェクトが本格始動することになるのは、20年の7月ごろ。江本さんは自身が評論家を務めるサンケイスポーツに働きかけ、「ぜひやりましょう」と賛同を得たのちに、同社から南海電鉄へと相談し、本格検討が始まった。
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