「ワシは『死んでくれ、死んでくれ』と心の中で叫んでいた」実父さえも苦悩した附属池田小事件・宅間守の狂気。子猫3匹を溺殺、傷害・強姦で収監、親の性生活に口出し…
昭和・平成 闇の事件簿3~附属池田小事件#1
日本犯罪史上まれに見る無差別大量殺人として社会に衝撃を与えた「附属池田小事件」から今年で22年が経った。事件当時、宅間守・元死刑囚の実家で寝泊まりし、実父Aさんとその後十数年間にわたって交流を重ねた記者・小林俊之氏が見た真相とは。本稿では、宅間守の出生の秘密や生い立ち、異常行動の数々が明かされる。 【画像】航空自衛隊時代の宅間守・元死刑囚、自筆した中学校時代の学習ノートなど画像多数
あの凄惨な光景は生涯忘れられない
2001年6月8日10時20分。大阪府池田市の池田消防署に「子供が背中から血を流している」と男性から第一報が入った。 その1分後、「大阪教育大附属池田小学校に刃物を持った男が侵入、多数の負傷者が出ています」と女性から第二報。10時45分には、池田消防署長が現場に到着した。のちにその惨状を記者会見でこう語っている。 「校舎から運動場に出る階段には40~50センチほどの固まった血痕があり、教室の入り口にはおびただしい血がついていた。警察が敷いた透明のビニールには生徒の血痕がズーッと続いていた。 担架で保健室に運ばれるふたりの女子が目に入った。パッと見た瞬間、これはあかんと感じました。目は閉じていましたが、ふたりともかわいらしい顔をしていました。私の孫ぐらいの歳でしょう、かわいそうでね……」 あの凄惨な光景は生涯忘れられないだろう、と声を詰まらせた。 2本の包丁で児童8名を刺殺し、15名を負傷させた男の名は、宅間守(当時37歳)。
宅間守と瓜ふたつの実父
当時、写真週刊誌の記者をしていたわたしは、事件が起きた翌日、午前8時発の新幹線のぞみ号で新大阪駅へと向かった。 所轄の池田警察署まで新御堂筋を車で行けば、ふだんは約30分ほどだったが、この日は大渋滞で2時間を要した。池田市内は捜査車両、救急車、報道陣の車両が行き交い、騒然としていた。 大阪では在阪スタッフ6名が取材を行っていた。わたしは被害者の聞き込み取材を担当した。亡くなった女の子のお通夜には警察官が多数配備され、葬儀場に近づくことはできなかった。哀しみと怒りで、街全体が張り詰めていた。 事件発生から3日後の6月11日14時。わたしは兵庫県伊丹市にある宅間守の実家を訪ねた。 閑散とした町並みに、近くの伊丹空港から飛び立つ旅客機の轟音が響く。町工場に隣接した2階建ての家の敷地には、壊れた家電や廃材がうずたかく積み上げられていた。阪神・淡路大震災の被害だろうか、ねずみ色の壁には数本の亀裂が走っていた。 詰めかけた報道陣に玄関先で応対する下着姿の老人が、宅間守の実父Aさん(当時68歳)だった。 頭髪は白いが、顔は守と瓜ふたつ。強烈な関西弁でズバズバもの言う父親がテレビ画面に映し出され、「この親にしてこの子あり」と世間から厳しいバッシングを受け始めた。 37歳にもなる息子が犯した罪に、親の責任はあるのだろうか。確かに守の人格形成に影響はあっただろうが、どうも釈然としなかった。 宅間守を知るためには、この父親と語るしかないと思い、ダメ元で言ってみた。 「今晩、ひとりで訪ねたいがいいか」 「何時でもかめへんで」