「ワシは『死んでくれ、死んでくれ』と心の中で叫んでいた」実父さえも苦悩した附属池田小事件・宅間守の狂気。子猫3匹を溺殺、傷害・強姦で収監、親の性生活に口出し…
「この子を産みとうない」と堕胎を懇願した実母
報道陣が引いた19時過ぎ、Aさん宅を再び訪ねると快く迎え入れてくれた。奥さんは老人ホームに入所し、独り暮らしだった。 「ワシの頭はコミュニストだが、心は右翼だ」 旧社会党の支持者で機械工だったAさんは、政治や己の人生について7時間も熱く語った。この日は息子の犯罪にはいっさい触れなかった。わたしは翌日も深夜2時に訪ね、Aさんと朝6時まで語り合った。 「守が異常行動をとるようになったのは、航空自衛隊を辞めた19歳ごろからや。喧嘩相手の車をボコボコにし、兄貴の車のガラスも割った。いつもキリを持っていて傷をつけていた。親から見ても普通でない、何をしでかすかわからへん不安があったんや。それで精神病院に相談したんや」 守は近所で“ゴン太”と呼ばれ、手に負えない悪ガキだったが、酒や薬物には手を出さなかったという。しかし、傷害、強姦など犯罪を繰り返し、収監された。 「勘当して13年、14年になる。それ以来、守が家に来たことは一度もない。長男が出刃包丁で首を切って自殺した原因は守にあると思っている。ワシの気持ちは憎しみから憎悪に変わってしまった。ワシは『死んでくれ、死んでくれ』と心の中で叫んでいた」 守の人生は出生から危ういものだった。Aさんより2歳上の妻は守を懐妊すると「この子を産みとうない。あかんねん」と堕胎を懇願したという。だが、子どもはふたりと決めていたAさんの頼みで、守はこの世に生を受けた。喜んだAさんは、守のために自宅を増築し、その部屋でわたしは話を聞いていた。Aさんは深いため息をつき、こうつぶやいた。 「まさかこんなことになるとは……」
宅間家にはじめて泊まった夜
わたしがはじめてAさん宅に泊ったのは、事件発生から1週間後の6月15日。事件後、好きな酒を断っていたAさんは頬がこけ、憔悴していた。口にするのはガラス瓶に入れたお茶だけだった。 未成年ならともかく、37歳にもなる息子が犯した事件でそこまで自分を追い込まなくてもいいのではないか……。わたしはAさんが好きだというビールをすすめ、夜明けまで語り合った。翌朝には、実父のコメントを求めて報道陣が集まった。酔いが残っていたAさんは、台所の窓を数センチ開け、大声でまくし立てた。 「同じことを何度も言わせんな。勉強してから来い!」 そして、断酒を解き、写真週刊誌の記者と朝まで飲んだことを報道陣に告げた。記事にされることをわかったうえで悪態をつく。 「あー、しんど。損な性分だと言われても今さら変えられへん。ワシはこうやって70年生きてきたんや」 酔ったAさんの言動はテレビに流れ、大袈裟ではなく、全国民を敵に回した。その責任はわたしにもあり、「あきれた取材現場」と週刊誌で叩かれた。このころ、10キロも体重が落ちていたAさんは「ワシ、死ぬんとちゃうかな」と珍しく弱音を吐いた。 その晩、Aさん宅の茶の間のこたつで寝入ったわたしは、ドカドカと入ってきたマスコミの足音で目が覚めた。Aさんが2階の守の部屋を公開したのだ。 壁には、女性自衛官や戦闘機の色あせたポスターが貼られていた。本棚にはヒトラーの『わが闘争』、大学ノートには小学生から高校2年生までの「反省文」が13ページにわたって綴られていた。守は工業高校中退だが、大学生だった兄を意識してか、〈灘高〉の文字もあった。 この日を境に、守の取材だけではなく、関西出張のたびにAさん宅を訪ね、泊めてもらうようになった。わたしがAさんを「お父さん」「オヤジ」と呼ぶようになったのもこのころからだった。